2012年1月25日水曜日

新春ミーティング: 3.11から日本の未来を考える

先日、こちらでも紹介した「Well-being Lab 新春ミーティング: 3.11から日本の未来を考える」で講演をしてきた。

場所は、コワーキング・スペースCEROで、秋葉原駅の目の前に建つ古い雑居ビル。このビル、昭和のにおいが残るレトロ感がプンプン。最初に足を踏み入れたとき、「こんな場所?」と正直思った。

イメージとしては、整理されてない書類がそこいらじゅうに山積みになり、その裏で不健康そうなおじさんが黙々と仕事をしてる事務所が、ずらっと肩をならべているような雑居ビル。


それが、CEROのドアを開けると、別世界が広がっている。


このギャップがなかなか面白い。白い壁に原色の赤と青の家具がアクセントになっている。秘密の隠れ家にやって来た感覚になる。

会場には30名近い方々が集まり、「Well-being Lab 新春ミーティング: 3.11から日本の未来を考える」がはじまった。まず、司会の小笠原さん(写真右)のお話から、私の講演へ。




3/11以後、いまだに問題は山積みとなっている。しかし多くの問題は、日本全体の問題にも共通している。そういった問題を考えるときに一番重要なことは、最終的にどのような社会や国を描いているのか、というビジョンである。

人類にとって大きな課題のひとつとして、生き残りがある。しかし先進国となった日本では、生き残りだけでは不十分だろう。すると、つぎに重要となってくるものこそ、どれだけ幸せに生きるか、ではないだろうか。

なんだかんだ言っても、最終的に判断するのは、個人の主観である。それ以上でもそれ以下でもない。嬉しいことも、悲しいことも、どれだけ感動するかも、それは自分の主観で判断する。だから幸福は、主観で体験できる最高の感情ともいえるだろう。

人間と他の動物には、決定的に違うことがある。自らの存在に「なぜ生きているのか」意味を問い始めたことだ。そのために、私たちには「生きる意味」が必要となる。これも主観の産物だ。だからこそ、私たちは自分自身の思考感情最大限に尊重しなければならない。

しかし現在の日本では、主観として「生活に満足している人」や、「幸せと感じている人」があまり多くない。驚くことに、それは1958年から変わっていない経済成長とはまったく別の問題であり、格差や年金の問題などもほぼ関係ない

それは、日本社会の本質的な、社会構造の問題なのである。


日本人で、「幸せに生きることが人生で一番大切」と思っている人はあまり多くない。幸せに生きることが最優先課題ではないのだから、当たり前といえば当たり前の結果だろう。

幸せは、個々人が主観で感じるもの。人それぞれが違う。だからこそ、個人に人生の決定権がなければ、その人生の満足度はあがらない。しかし日本の社会では、個人が好きなことをやるのではなく、いつも「場の空気」に従うことが要求される。だから個人の存在は、小さければ小さいほど良いことになってくる。だから「みんなと同じ事をするのが幸せだ!」という発想まで出てくる。

しかし結果として、日本人はあまり幸せを感じていない。誰がどう調査しても、結果はほとんど変わらない。日本の会社で務める社員の満足度も、あまり高くない企業が多い。これも一貫している。そして自殺率も非常に高い

個人の満足度が高い社会では、個人の自由が尊重され、人と違うことが良いこととされる。つまり多様化が奨励されている。どんな立場の人であっても、その人なりの「幸せ」を追求することが尊重されているのである。

だからといって、個人が何でも好き勝手なことをやればいい、という話ではない。個人の権利を最大限に尊重しながら、社会との関わり合いを同時に達成する必要がある。しかし、それらは矛盾することではない。個人の欲求の中でも、社会に認められたい欲求や、人に感謝されたい欲求は非常に強い。「好きなこと」の中に「社会貢献」が入るひとは沢山いる。

そこで私は、社会個人主義を提言する。(詳しくはこちら
これこそが、今後の社会のビジョンとなるべきだろう。

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詳細と途中の話をほとんど省いたが、大体以上のような内容だった。
そしてつぎに、坪井久人さんがCharity Japanについての講演に入った。
(写真右が坪井さん)


チャリティージャパンは、日本最大級の総合チャリティー情報ポータルサイト。サイトでは各分野で活躍している人々のインタビューなども掲載されている。坪井さんはまだ20代だが、積極的にこのような活動をしていることは、率直に素晴らしいと思う。

その後、参加者の方々と3つのグループに分かれて、対話を行った。

やはり大人数で質問を受けるよりも、小さなグループのほうが活発に発言する人が多くなる。議論は白熱していき、時間が終了した後でも、半分以上の人々がそのまま残って終電間際まで議論はつづいた。

参加した皆様、たくさんの興味深いご意見をありがとうございました。小笠原さん、坪井さん、お疲れ様でした。そして主催して下さった長尾さん、堀畑さん、ありがとうございました!


2012年1月16日月曜日

説明しないことが奨励される社会の、大きな代償

<以下の文は、言論プラットフォームアゴラにも掲載されています>


「黙って、とりあえずやりなさい」
という表現をよく耳にする。

そしてブルース・リー「頭で考えるな、肌でつかめ」は有名だ。
こういった姿勢はスポーツだけでなく、日本では勉強社会道徳を学ぶことにも使われている。

しかし、これには実はとてつもなく大きな代償があることを見落としている。

たとえば、格闘技の世界を考えてみる。
格闘技で相手と対戦するとき、いちいち頭で考えている時間はない。反応するスピードが遅くなるからだ。だからこそ「肌でつかめ」の感覚を取得することは、達人の域に入ることになる。

しかし私が高校一年生で空手を始めたとき、先輩はきちんと「なぜ空手の突きは破壊力があるか」を、力学的に説明してくれた。全身のすべての筋力を効率よく動かすことで、パワーすべてを拳に集中する方法だ。「正拳突き」の威力は、単なる筋力の結果ではない

技を取得する前に、理論的な裏付け充分納得できただけでなく、なんとなくイメージも湧いたので、私は練習に没頭することができた。そのうちに、「どうすればもっとパワーのある突きや蹴りを出せるか」を、自分でも考えはじめるようになった。

もしも「リクツじゃない。黙って従いなさい」と言われ、ろくな説明も無しに練習をさせられていたら、私はあまり空手に魅力を感じなかっただろう。

そうはいっても最終的には、身体にしみ込むほどくり返し練習することで、「肌でつかめ」という感覚に達することは間違いない。しかし私が問題にしているのは、一番最初にどうやって意思決定をしているか、という点である。

別のたとえを考えてみる。ダンスの場合だ。
多くの日本人にとって、ダンスの基本形は「盆踊り」だろう。先日テレビで、ダンスが小学校から必修科目になる、というニュースを放送していたが、そのときダンスの指導者はインタビューで「ダンスは憶えることですから」と答えていた。つまりダンスは、「集団で音楽に合わせてあらかじめ決まった動きをすること」という認識なのだろう。

数年前、私はブエノスアイレスタンゴを習っていた。タンゴは男性が100%リードするので、男性は特に多くのステップ(動き)をおぼえる必要がある。しかしアルゼンチン人のタンゴの先生は、「ステップは重要ではない。音楽を聴き、それをどうやって自分なりに表現するかだ」と力説していた。来日経験が何度もあるその先生は、「日本人の男性は、沢山のステップを知ってるひとはいるが、ダンスを踊ってる人は少ない」と語っていた。

たしかに私にとっての一番大きなハードルは、「音楽をどうやって自分なりに身体で表現するか」だった。青年時代にディスコ(古い?!)で踊っていたときは、本当に心から踊っている感覚はなかった。周囲の人たちの踊り方を真似て、なんとなくカッコイイと思われる形で動いていた。言うまでもなく、音楽を自分だけの解釈で表現することはなかった。しかし私がこれまで見てきた世界中の国々では、ダンスをする人たちはカッコイイかどうかは二の次で、率直に音楽を身体で表現していた。

ダンスの根本は、自分の意思を外側に発信する「内面の表現」だ。「音楽」「身体の表現」一対一ではないし、あらかじめ決められたものでもない。その時々の自分の感情や受け止め方によっても変化する。しかし私は、盆踊りの「音楽に従って決められた形をする」を刷り込まれて大人になってしまった。

もちろん日本の盆踊りは、文化としてきちんと存在意義があるだろう。しかし私にとって最初のダンスとしての盆踊りが身体の自由を奪ってしまったために、感情と身体が一致できない自分がもどかしかった。だからそのギャップを埋めるために、これまでいろいろと試行錯誤をした。インドで一年以上も没頭した瞑想も、自己の一貫性を取り戻すための修行だった。

冒頭でもふれたが、このテーマは運動だけの話ではない

子供は誰でも、「どうして?」と質問をする。しかしその質問に対して、「うるさいから、黙ってやりなさい!」と大人が言い続けると、そのうちに子供は質問をしなくなるだろう。そして、黙って何でも親に従う子供「よい子」として賞賛されていく。

すると、子供はそのうち「なぜ」という疑問さえ持たなくなってくる。その後は、「それが社会だから」とか「世の中はそういうものだから」以上に詮索するのをやめてしまう。周囲と同じ事をやっていれば、少なくとも批判されることはないからだ。

そうやって大人になった者は、今度は子供達から「どうして?」と質問されても、「そういうものだから」としか答えることができない。それ以上に「なぜ?」と聞かれると、「いいから、黙って従いなさい!」となってしまう。自分がそうやってきたのだから、当然といえば当然の結果だろう。

日本在住の外国人の友人から、こう指摘されたことがある。
「どうして日本人の母親は、いつもあれダメ、これダメと、ダメばかりいうのか?あれでは、子供が萎縮してしまうでしょう」

その通りだと思った。萎縮した子供萎縮した大人になり、自分の外側にある「常識」に従うことを絶対視する。それは、自己が喪失していくことを意味しないだろうか。

「しつけ」とは、「既存のルールに盲目的に服従させる」ことではないはずだ。子供であってもきちんと説明をすれば、たいていは納得できる。納得しないなら、まず最初に説明が不十分だと思うべきだろう。もしも説明できないならば、それを自分が最初に憶えたときに、どうやって学んだのかを思い出してみるといい。おそらく、黙って服従した自分を発見できるだろう。

「納得しないことに従う」ことを幼少期から課すことは、成長の段階で本人の「意思」を抑圧することになる。誤解されないように強調したいが、「従うこと」自体が問題なのではない「黙って従う」ことと、「納得して従う」ことは決定的に違う。

自分の心と体に一貫して「イエス」と言えることが、「納得する」という行為だ。しかし納得せずに、黙って従いつづけ、それが当たり前になってしまうと、自分の「意思」も限りなくゼロになっていくだろう。結果として、いくら形やルールを憶えたとしても、自分の意思を犠牲にするほど、そこに価値はあるのだろうか。本人の意思が軽視されることは、人間としての尊厳を失うことに等しい。

意思とは、ひとりひとり固有の、自分を自分としている最小単位の根源である。意思があるから、その人の個性が生まれ、人間としての魅力も出てくる。意思がなければ、それは魂のない人間と同じだろう。

仕方がないから。
それが世の中だから。
ダメなものは、ダメでしょ。

こういったものが口癖ならば、自分の「意思の存在」を疑う必要がある。
「それが日本人の国民性だ」
「日本の文化だから変える必要はない」
などと、安易な反論がでてくる場合も要注意だ。

そもそも文化とは何か。そして、何のために文化があり、なぜ社会が存在しているのか、という点にも疑問を持たなければいけない。「文化」や「伝統」という名の下に、どれだけの意思が潰されていき、どれだけの個性と人間性が犠牲になっているのか、見落とすべきではない。

日本には、「自分が本当に何をしたいのか、よくわからない」と言う人が多い。自分としっかり向き合っていなければ、分からないのは当然だろう。自分と向き合うためには、自分の意思を明確に知る必要がある。

もう一度、ここでくり返したい。「黙って従う」ことと、「納得して従う」ことは決定的に違う。自分で納得した規則やルールならば、それに従うことは苦にならない。それは社会のルールや法律も同じだろう。自分たちで社会のルールを作っているという自覚があれば、そのルールに従うことに誇りさえ感じるだろう。自分の意思が反映されているという実感は、「自由」という感覚にもつながってくる。

もしも今度、誰かに「つべこべいわず、黙ってやりなさい」と言いそうになったら、それは相手の魂を抑圧する行為だと自覚すべきだろう。そして、きちんと説明できない自分をもういちど見つめ直す、絶好のチャンスとすべきではないだろうか。

2012年1月6日金曜日

お知らせ(参加者募集)

神頼みを一切やめてから、すでに20年以上は過ぎました。
だからといって、すべてが自分次第とは思っていません
自分ができることを、簡単に放棄したくないと感じているだけです。
自分自身が弱い存在だと自ら実感しているからこそ、
己を甘やかさないための処置でもあります。
毎年この時期になると、そんな気持ちをあらためて確認しています。


さて、以下はお知らせです。

今月の1月19日、秋葉原にあるコワーキング・スペースCEROにて、
「Well-being Lab 新春ミーティング: 3.11から日本の未来を考える」
を開催します。
(Well-being Labは、長尾さんが代表の研究所です)

詳細は以下になります。
参加ご希望の方は、フェイスブックのアカウントをお持ちの場合はこちらから、それ以外の方は、以下のアドレスへお名前を明記してご連絡ください。

以下、FBサイトからのコピーです。


2011年3月11日、未曾有の大震災を通し、日本社会は今まで抱えていた様々な問題を一挙に露呈し、人々の意識や生き方を根元的に変えることになりました。


放射能流出からの風評被害、被災地への政府の対応状況に対する政治不信等が雪崩的に広がると同時に、被災地では少子高齢化や過疎化を抱えながら、復興・復活への第一歩となる2012年を迎えます。


今回は、「幸福途上国ニッポン」の著者・目崎雅昭さんと、チャリティ情報ポールサイト「Charity Japan」の運営者・坪井久人さんをお迎えし、今後どのようにして幸せな未来社会の青写真を描くのか?・・・参加者皆さんと共に考える時間にしたいと思います。


■目崎雅昭さんからのメッセージ
 3.11からの復興も含め、日本は社会としてどのようなビジョンを持つべきなのでしょうか。単なる経済発展だけでは不十分なことは明らかでしょうが、だからといって、資本主義を真っ向から否定することも得策には思えません。個人の幸福の追求と、社会の秩序や安定は、必ずしも相反するものではありません。どうすればそんな社会を実現できるのか、「幸福」をキーワードに「日本の未来ビジョン」を皆さんと一緒に考えませんか。


■坪井久人さんのCharity Japan サイト
 http://charity-japan.com/


●日 時 : 2012年1月19日(木)19時~22時
●場 所 : Coworking Place CERO 秋葉原
●参加費 : 2,000円(ドリンク+お菓子付)
●定 員 : 40人(定員になり次第締め切らせていただきます)
●主 催 : Well-being Lab.(幸せ研究所)