2011年8月21日日曜日

小学生の金髪はアリか?

うちのクラスには、金髪の子がいるよ

小学4年生の甥っ子の話だ。外国人留学生の話ではない。その金髪に染めている生徒は、兄弟3人と、さらに親もみんな金髪らしい。

「そりゃあ、親がアホだな。だって、小学生が自分から金髪にしたいなんて思うわけないだろ」

そう言って切り捨てたのは、私の父だった。たしかに一理はある。ヤンキー風の両親の顔が目に浮かんだ。

「でも運動会のときに、その子が応援団をやりたくて、それならば金髪はやめろと先生に言われて、黒髪に直してたよ」

なるほど。すると運動会がなければ、その子はそのまま金髪だったのか。

しかし、ここで根本的な疑問が浮かんできた。そもそも、なぜ金髪にすることがイケナイのか。

小学生には必要ないから?
でも、そもそも日本人で金髪や茶髪にする必要があるひとなどいない。必要か、必要ではないか、という判断でモノゴトを決めるのは、非常に強引である。美術も音楽も、娯楽すべては必要ではない。でも必要でないものがあるから、人生は楽しく有意義になるのではないだろうか。

服装・髪型の乱れは精神の乱れ?
これは、個人を画一化するための常套手段だと思う。そこには「みんなが同じであることが正しい」という発想が根本にある。「ひとはそれぞれが違う」とはまったく逆だ。人を教育するにあたって、個性を潰すのが最良の方法と思っているのなら、話は別だが。

常識的に考えて、おかしい?
こういう意見は、日本人の典型のような気がする。でも、常識って何だろう。みんなと同じか、そうでないか、という基準以外で、常識を定義できるだろうか。みんなと同じことが正しいことだと思う人がいるならば、それほど恐ろしいことはない。

どう考えても、小学生で金髪がイケナイという理由が思いつかない。
他に何かあるだろうか。


もしも何か思いつくならば、是非おしえて頂きたい。





2011年8月15日月曜日

医者の役目とは?

フェイスブックでほとんど偶然に、高校時代の空手部の後輩ふたりとつながった。そして先日、23年ほどぶりに、それぞれと飲みにいった。

ひとりは某大物政治家の長男なので、最近父親の地盤を継ぐため(?)に、地元で秘書をやっている。高校時代は「木村一八と喧嘩をしたことがある」と豪語していた輩だ。

よく話をきくと、中山美穂主演の当時のドラマ『まいどおさわがせします』のロケを見に行き、パンツ一枚で走り回る木村一八を指さして笑っていたら、後で本人に呼び出されたらしい。そこで喧嘩になりそうになったところ、横から佐藤B作が止めに入ったというオチだった。

そんな人物なので、当時から態度がデカく、ふてぶてしい印象を与えることもあった。でも同時に、どこか憎めない、愛嬌のある性格でもあった。要するに、自分に素直に生きているだけなのだろう。個人的には、非常に好感の持てる生き方である。

結局、彼とは朝7時まで飲みながら、政治や社会についていろいろな話をした。駅の改札口の前でも話が終わらず、最後はその場で30分ほど話し込んだ。


もうひとりの後輩は、現在八王子の病院で院長をやっている。フェイスブックでつながるまで、彼が医学部にいって医者になったことさえ知らなかった。日本の医療を世界へ輸出する試みにも取り組んでいるらしい。

私の著書に共感してくれたようで、医療の現場でも集団主義からの脱却が必要と感じているとのことだった。

非常に印象的だった彼のひと言がある。

「医者の役目とは、患者を幸せにすることなんですよ」

私は激しく同感する。しかし現状は、多くの医師たちは彼と同じ意見ではないのだろう。それは、病気を治療する行為、つまり「マイナスをゼロまで戻す」ことが医者の役目と感じている人が多いからではないだろうか。

ちょっと話がそれるが、管総理大臣が国家の目標として「最小不幸社会」を掲げたときに、私は非常に大きな違和感をおぼえた。政治の役目とは、「個人が幸せになる社会」をつくることではないか、と思っているからだ。

もちろん、幸せを感じる要素は無限大にある。個人によって、どう幸せになるかは千差万別だ。だからこそ、自分で心底納得できる、自分だけの人生を選択できる環境をつくることが政治の役目ではないだろうか。それには寛容な社会が絶対に必要となってくる。(参照:幸福途上国ニッポン

そして一番重要なのが、本人の意志である。どうすれば自分が幸せになれるかを、自分で理解していなければ、選択があっても意味がない。

話を戻そう。

医者の役割とは、患者を修理するのではないと思う。私の後輩が言うように、患者の人生がどうすれば幸せになるか、それの手助けとして医療を使うべきではないだろうか。しかしそのためには、本人がどういう人生を望んでいるのかを、医師は知る必要がある。

しかし後輩いわく、現状はちょっと複雑だ。どのような治療をしようかと患者に相談すると、多くの患者は「先生にすべてお任せします」と答えるらしい。しかしながら、もしも医療ミスがあれば、容赦なく訴訟の対象となり責任を追求される。

どうやって病気に向き合うかは、ひとそれぞれが違って当然だろう。ひとりひとりの歩んできた人生が違うのだから、同じ病気でも治療方法が違うことが大前提とすべきではないだろうか。

しかし集団主義では、基本的に人と違うことを認めない。だから患者も先生も、顔のない壊れたロボットを修理するかのように、マイナスからゼロに戻すことに専念する。そこに、「幸せな個人の人生とはなにか」という、プラスの要因を考える判断基準が入る余地はない。

自分の人生は自分のものであれば、自分の病気をどのように治療し、果てはどのように死にたいかも自分で決定するのが当然であろう。

しかし集団主義というシステムでは、「本人の意志」は重要ではない。「みんなそうだから」という理由で、みんなと同じことを強要されてしまう。だから自分の人生が自分のものである、という意識も希薄になっていくのだろう。そのような人生では、幸せを実感でなくても無理はない。

私が拙著『幸福途上国ニッポン』で提唱している社会個人主義は、医療の世界にも必要な生き方といえるのかもしれない。



2011年8月8日月曜日

FM軽井沢に生出演

8月6日(土)12時から30分間、FM軽井沢で放送している「今日の軽井沢人」にゲストとして生出演しました。

放送の録音です。





DJの宮尾博子さんと


30分間を本の宣伝も兼ねて、しっかりと話をさせていただきました。
宮尾さん、ありがとうございました!

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2011年8月4日木曜日

お知らせ(FM軽井沢)

FM軽井沢(77.5MHz)に8月6日(土)12時から出演します。

ネットでも生放送を配信しているので、以下のリンクからどうぞ。
http://www.simulradio.jp/asx/fmkaruizawa.asx


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