2010年12月28日火曜日

メディアを信頼してますか?

新聞や雑誌、そしてテレビを、あなたはどの程度信頼しているだろうか。

ワールド・バリュー・サーベイでは、実際に上記の質問を世界各国のひとびとにたずねている。そして日本の結果は、以下であった。

新聞や雑誌を信頼しますか
1: 非常に信頼する      7.6% 
2: やや信頼する      67.0%
3: あまり信頼しない     23.4%
4: まったく信頼しない     2.0%

テレビを信頼しますか
1: 非常に信頼する      8.5% 
2: やや信頼する      61.1%
3: あまり信頼しない     28.1%
4: まったく信頼しない     2.4%

結果をまとめると、新聞や雑誌を「非常に」または「やや」信頼している日本人は74.6%、「やや」もしくは「まったく」信頼していないのは25.4%である。また、テレビを「非常に」もしくは「やや」信頼している日本人は69.6%であり、「あまり」もしくは「まったく」信頼していないのは30.4%である。

この結果は他の先進諸国と比べて、メディアを信頼している割合が圧倒的に高い

日本と同様にメディアを高く信頼している国は、韓国、香港、中国、ベトナムなどのアジア各国と、ヨルダンやエジプトのイスラム教国、そしてマリやガーナのアフリカ諸国である。

その一方で、オーストラリアでは88.5%の人が新聞や雑誌を信頼していないと回答し(「あまり信用しない」と「まったく信頼しない」の合計)、テレビを81.8%が信頼していないアメリカでも76.1%が新聞や雑誌を信頼せずテレビ74.7%が信頼していないその他のヨーロッパ諸国でも、少なくとも6割以上の人がメディアを信頼していない

7割前後の人がメディアを信頼している日本とは、非常に対称的な違いである。

あなたの情報源は?

ワールド・バリュー・サーベイでは、メディアについて次の質問も調査している。

「自国や世界のことを知る情報源で、先週利用したものはどれか」

日本の結果は、以下となった。

A: 新聞                  90.1%
B: ラジオやテレビのニュース          97.6%
C: 雑誌                  36.3%
D: ラジオやテレビの報道番組       93.8%
E: 本                   27.3%
F: インターネット、電子メール       45.9%
G: 友人や同僚との会話             69.4%

日本を含めた先進国のほとんどは、新聞もしくはラジオテレビのニュース90%から95%を超えるほどの主な情報源となっている。

それに対して途上国では「新聞」と回答した割合が、ルワンダで9.8%、エチオピアで52.9%と、国によってばらつきがある。これは各国における新聞の普及率と密接に関わっていると推測できる。そしてテレビやラジオでは、一番少ないインドでも61.3%であり、53ヶ国の平均は87.6%と、回答項目の中で最も多い数字となった。

確かに、電気も通っていないアフリカの奥地でも、小型のラジオでニュースを聞く人をたびたび見かけたことがある。乾電池で動くラジオは低価格だけでなく、最も早く情報を入手できる手段として広く浸透しているのだろう。

雑誌や本については、ラジオやテレビに比べると情報伝達のスピードがどうしても劣ってしまう。そこで日常の情報源としては、雑誌や本を活用される度合いが低くなっている国が多い。またインターネットについては、ノルウェースウェーデン、そしてアメリカ合衆国などでは70%前後と、雑誌や本よりも頻繁に使われている国も少なくないが、平均的には雑誌や本と同程度の利用頻度である。これはネット人口が年齢によってばらつきがあることが関係していると推測できる。そこで今後は、さらなるネットの普及や回線の高速化が進むにつれてネット人口が増加し、インターネットで日常の情報を得る割合が多くなることは予測できる。

しかしここで注目すべき項目は、「G:友人や同僚との会話」が、日本では69.4%と比較的に少ない点である。中国では43.8%台湾50.2%韓国71.8%と、東アジアは相対的に少ない。その一方でスイススウェーデンのヨーロッパ諸国では90%を超えている国がほとんどである。

つまりヨーロッパでは、友人や同僚との日常会話の中で、新聞やテレビのニュース内容と同じことが頻繁に話題に上がっているのに対して、日本をはじめとするアジアでは、友人や同僚とあまり社会的な事件を話さないという傾向を示している。

この結果を見るかぎりでは、東アジアでは欧米よりも会話自体の頻度が少ないのか、それとも会話は頻繁に行っているが、ニュースなどの事件や出来事についてあまり話をしないのか、どちらかを判定することができない。

しかし私の個人的な経験からすると、日常会話でいろいろな社会問題を語る機会は、日本と比べて欧米ではとても多い。学生から社会人まで、職業も関係なく、欧米の人々はいろいろな分野にわたって深く掘り下げた対話をよくしている。それはランチの席上であったり、また夕食後に時には数時間にもわたって、たとえば「移民を受け入れるべきか」について、侃々諤々と議論に発展したりすることもある。

真っ向から対立する意見の時には声を荒げることもあるが、それはすべてコミュニケーションの一部であり、意見の対立によって人間関係が悪化することはない。なぜならば、彼らはそういった議論のすすめかたを学生時代から授業なども含めて学んでいるからだ。その延長線上で、友人や同僚とも気軽に政治や社会問題についての意見交換が頻繁になされている。

その一方で、日本では社会問題がふだんの生活で話題にのぼることはきわめて少ない。ましてや友人や同僚と夕食をしている最中に、たとえば「日本でも移民を受け入れるべきか」などと、数時間にわたって真剣に議論したことのある人はほとんどいないだろう。

反対意見を出し合って対話を進めるというコミュニケーションのやり方が、社会全体で否定的なイメージにとられていることが、日本における対話の少なさの大きな原因なのかもしれない

もうひとつ注目すべき項目は、「D:ラジオやテレビの報道番組」の結果である。日本では93.8%の人が報道番組から情報を得ていると回答しているが、これは53ヶ国中で圧倒的に最大の割合である。欧米諸国では60%から80%程度と国によってばらつきがあるが、90%を超えている国は日本しかない。

報道番組と、新聞もしくはラジオテレビのニュースでは、情報源としての決定的な違いがある。ニュースは基本的に事件などの客観的な事実を伝えるだけなのに対して、報道番組はキャスター等が事件に対する主観、つまり制作者の意見が反映されやすい。それは報道番組をつくる過程で、特定の事件を長期的に取材することで、報道する側が事件に対する一定の見解をつくりあげるという性質があるからだ。

もっとも、こういった報道番組によって多種多様な意見が生まれることは、社会にとって必ずしも悪くはないだろう。報道番組のスクープによって、社会が変革することもある。第3の権力といわれるメディアが権力を監視する機能として、報道番組は最適であるかもしれない。そこでむしろ、これは健全な社会の証拠であるといえるかもしれない。

しかしながら、ここで冒頭の調査結果を思い出してもらいたい。日本人の74.6%がテレビを信頼しているという事実である。6割以上の人がメディアを信頼していないと回答している欧米諸国とは、状況が大きく異なっている。

友人や同僚から情報を得るならば、そのときに何らかの意見を交換する機会があるだろう。しかし日本では、友人や同僚が情報源としてあまり大きな役割を果たしていない。そして報道番組から発信される情報は、発信者との意見交換ができない一方通行である。

ましてや、視聴者の7割がメディアを信頼しているのであれば、報道番組の意見をそのまま自分の意見として受け入れてしまう人が大多数に及んでいる可能性が高いことになる。それはメディアの報道次第で、世論がどうにでも動いてしまうという、ある意味、非常に危険な社会ともいえるだろう。

メディアの信用度が高い国が、アジア各国やイスラム教国というのは、決して偶然ではない。




2010年12月20日月曜日

選択の自由がありますか? (2)

日本人は、法律の上で多くの自由が保障されながらも、実感としてあまり選択の自由がなく、自分の意志が人生に反映されていないと感じている、という調査結果が明らかになった。
http://mezaki.blogspot.com/2010/12/blog-post_17.html

さて、どうして日本人は自由がないと感じているのだろうか。

ちなみにワールド・バリュー・サーベイの調査が最初に行われたのは1981年、そして次が1990年である。その時の日本人の感じた自由度は、両年とも10段階のうち5.5であり、調査国中でも断トツの最下位だった。当時の調査には中東やアフリカ諸国が対象国になかったという事実もあるが、それでも5.5という数字はかなり低い。

1980年から1990年といえば、バブル経済のまっただ中である。そして次の調査が行われた1995年には6に上昇し、2000年も6だった。そして2005年が6.1であったことを考慮すると、若干ながらも上昇トレンドを示している。しかしながら、日本が他の先進国に比べて極端に低い自由度を感じていることには変わりがない。

この理由を明確に指摘することは容易ではないだろう。しかし少なくとも考えられることは、日本人ひとりひとりの意志に、何らかの目に見えない制約があることだ。近代的な民主主義国家である日本の法律では、個人の自由が他の先進国とほぼ同様に保障されている。(ほぼ同様であって、同等ではないことにも注意。しかし「自由度」という点では、上位に入っている。
参照:http://mezaki.blogspot.com/2010/12/blog-post_17.html

したがって大きな理由は、数字には出てこない、なにか精神的な側面であるに違いない。

運命論

ひとつの可能性として考えられるのは、極端な運命論だ。

つまり「人生はすべて運命で決まっているから、自分の意志で選択する余地などない」と考えることである。運命を操作しているのが「神」とするかは別にして、何をしても自分の力では及ばない、もっと巨大な力によって支配されていると考えるならば、自らの意志を反映できる人生の度合いが少ないと感じるだろう。

もちろんどんな人生でも、自分ひとりではどうしようもないことが沢山ある。生まれる場所や時間、そして顔や身体の基本構造などの遺伝情報は、自分自身では決めることはできない。だからといって、自分の意志が自分の人生に反映されていないと考えるのは、かなり極端な宗教的な発想だ。

占いや血液型判断はいまだに根強い人気があるが、占いで人生のすべてを決めている人はほとんどいないだろう。また「人生に選択の自由があるか」という質問に対して、「元来、人に自由意志など存在するのだろうか」などと、哲学的なことを考える人も、ごく少数であろう。したがって、こういった極端な運命論に、日本人全体が感化されている可能性はきわめて低い。

実際にワールド・バリュー・サーベイによる別の調査を見てみると、世界のほとんどの人々は極端な運命論を信じていない。日本で極端な運命論を信じている人は、わずか3.7%だった。

例外として、エジプトやモロッコといった一部のイスラム教徒で、国民の50%近くが「すべてが運命によって定められている」と考えている。しかし敬虔なカトリック教徒であるラテンアメリカでも、10%程度の人しか極端な運命論を信じていない。またその他の先進諸国でも、極端な運命論者は平均的に5%以下である。そして同じイスラム教徒でも、イランでは7%、ヨルダンでは5.6%と、先進諸国と同程度の国もある。

宗教が強い運命論を信仰させることはあるが、それが必ずしも「人生における選択の自由」という感覚を減らすことはない、という結果である。


無力感を学習する

ここで、「自由」に関連するとても興味深い心理学の実験を紹介したい。

米国の心理学者マーティン・セリグマンは、数匹の犬を3つのグループに分けて、次のような実験を行った。まずひとつ目のグループと、ふたつ目のグループの犬たちに、微量の電気ショックを与えた。ただしひとつ目のグループの犬たちだけ、あるパネルを押すと、そのショックが止まるしかけになっている。ふたつ目のグループの犬たちには、そのようなパネルは存在しない。そして3つ目のグループの犬たちには、電気ショックは一切与えられなかった。

しばらくすると、すべてのグループの犬が、ひとつのケージへと移された。そしてすべての犬に微量の電気ショックが与えられた。そのケージの壁は低く、飛び越えようと思えば簡単に飛び越えることができる高さだった。さて、結果はどうなっただろうか。

ひとつ目と3つ目のグループの犬たちは、すぐに壁を飛び越えて外に逃げた。しかし、ふたつ目のグループの犬たちは、その場で身をかがめて電気ショックを受けながら鳴きつづけた。ふたつ目のグループの犬たちにとって、電気ショックは逃れられないものだと「学習」してしまい、逃げ出すという努力もやめてしまったのである。このような状態を「学習性無力感」とよぶ。

セリグマンはその後、似たような実験を人間にも行った。しかし人間を対象に電気ショックを与えるのは倫理的に問題があったのか、代わりに不快な騒音で実験を行った。

ひとつ目のグループの人たちには、不快な騒音を聞かせるのと同時に、それを止めることができる選択肢を与えたのに対して、ふたつ目のグループの人たちには、不快な騒音を止める手段を与えなかった。

しばらくすると、両グループの人たちは、止めようと思えば止められる騒音を聞かされた。すると、犬の実験と同じように、ひとつ目のグループはすぐに騒音を止めたが、ふたつ目のグループは、不快な騒音を止める努力をしようとはせずに、黙って不快な騒音を受け入れた。

以上のセリグマンの実験は、自由を感じていない日本人の状況を説明できないだろうか。

少なくとも法律上は他の先進諸国とほぼ同等の自由があるのにもかかわらず、人生が自由だと感じられないという心情には、「自由」という選択を何らかの理由で放棄しているか、もしくはあきらめていることになる。学習性無力感と非常に似ている状態だ。いずれにしても、何か大きな障壁が存在することになるだろう。

そこで日本人の自由を阻害するものを、日本社会に存在する「見えない抑圧」という点で考えてみよう。

たとえば「しがらみ」とか「世間体」という言葉に代表されるように、日本には常に周囲と同じ行動をとるべきというプレッシャーがある。米国の文化人類学者で『菊と刀』の著者でもあるルース・ベネディクトは、日本の文化を「恥の文化」と称した。つまり日本の社会では、ひとりひとりが「恥」という意識を持つことによって、各自の行動を制約するのである。これは「罪の文化」である欧米とは性質が違う。そこで日本では、個人がどんなに好きな人生を送ろうと思っても、必ずといっていいほど、いろいろな「しがらみ」があり、「常識」という制約のために、好きなことができない場合が多い。

周囲とまったく同じことをしていれば、「恥ずかしい」と感じることは決してないだろう。つまり人と違う行動を「恥ずかしい」と感じる心の奥底には、集団へ同化することへの圧力が背景にあると考えられる。

「常識的に生きる」という発想は、多くの日本人が共有しているだろうが、常識的な行動とは、ある特定の集団での平均的な振る舞いにすぎない。したがって常識をいつも意識することは、いつも集団と同じ行動をしなければならないという抑圧にさらされることでもある。家族、親戚、友人、そして近所の人々と、いつもどこかで誰かが常識を盾に、「見えない抑圧」によって個人の行動を制約しようとする。

もちろん、どこの文化にも常識は存在する。常識がなければ、社会は成り立たない。しかし日本の社会は、常識というものが善悪を判断する基準となっている。何が正しくて、何が間違っているかと判定するためのよりどころが、それが常識的であるかどうかという判断になっているのである。そこで常識や世間体という制約が人々の心に重くのしかかり、法律上の権利として与えられた「自由」を行使することができずにいるのかもしれない。だからといって、その状況に完全に満足していないために、自分の人生には自由がないという不満が残っているのだろう。

2010年12月17日金曜日

選択の自由がありますか?

ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン教授は、かつてこう語っている。

「社会が発展する意義は、個人の選択の自由を広げることにあり、豊かさはその次である」

いくら豊かになろうとも、個人に自由がなければ意味がないということだろう。

それでは実際に、人々がどの程度の自由を感じているか、尋ねてみたらどうなるか。

ワールド・バリュー・サーベイでは、世界中の人々を対象に、次の質問をしている。

「あなたの人生には選択の自由と、自らの意志を反映できる人生がどの程度ありますか」
 
さて、日本人はどの程度の自由を感じているのだろうか。

回答は1から10までの度合いで、1が「まったく感じられない」、10が「非常に強く感じる」というスケールで評価されている。2005年に行われた調査では、日本人の平均は6.1であった。これは56ヶ国中49位であり、厳格なイスラム国家のイラン(7.1)や、飢餓と貧困で世界から注目されることが多いアフリカのエチオピア(6.2)よりも低い。ちなみに最下位はイラク(5.4)とモロッコ(5.3)である。

世界の中でも、日本人がこれほど自由と感じていないとは驚くべきことである。
 
それでは、世界で最も自由と感じている国はどこだろう。直感的には、やはり北欧を中心とする北西ヨーロッパではないかと思う人のではないだろうか。実際の結果は、以下の通りである。
 
1位 メキシコ(8.4)
2位 コロンビア(8.0)
3位 アルゼンチン(7.9)、トリニダード・トバゴ(7.9)、ニュージーランド(7.9)
 
3位以後は、スウェーデン(7.8)やフィンランド(7.8)の北欧勢が追随しているが、肩を並べるようにウルグアイ(7.8)、ブラジル(7.7)と、やはり上位をラテンアメリカ勢が占めている。
 
フリーダムハウス
 
「自由」について本人に尋ねた調査であるワールド・バリュー・サーベイとは別に、各国の自由度を客観的に調べている機関がある。

アメリカに本部をおくNGOフリーダムハウスは、世界192ヶ国の「政治的自由」と「市民的自由」というふたつの指標から「世界の自由度」を発表している。
 
政治的自由度とは、どれだけ自由に政治的活動ができるかであり、市民的自由度とは、表現や信仰などの個人の自由を基準にしている。それぞれが1から7までの数字で表され、

「1(政治的自由)-1(市民的自由)」

が、最も自由度が高いことを示す。結果をみてみよう。

政治的自由と市民的自由の両方が「1-1」と、最も自由度が高い国は、欧米諸国ではギリシャを除いたすべての国だった。
東欧では、バルト3国、ハンガリー、ポーランド、スロバキア、スロベニア、中南米では、バハマ、バルバドス、チリ、コスタリカ、ドミニカ、ウルグアイ、そして小さな島であるカーボベルデ、キリバス、マーシャル諸島、ミクロネシア、ナウル、パラオ、ツバルが、「1-1」と、最も自由度が高い。
 
日本はギリシャと同じで、「1-2」であった。

ワールド・バリュー・サーベイで最も自由だと回答していたメキシコは「2-3」、コロンビアは「3-3」、アルゼンチンは「2-2」、ブラジルは「2-2」と、ある程度の自由度は維持しているが、欧米諸国に比べると客観的な自由度は低い。そして「7-7」と、世界で最も自由度の低い国は、ミャンマー、キューバ、リビア、北朝鮮、ソマリア、スーダン、トルクメニスタン、ウズベキスタンだった。そして中国とサウジアラビアは「7-6」、イランとイラクは「6-6」であった。
 
フリーダムハウスの調査は、ワールド・バリュー・サーベイと比べてみると、とても興味深い比較ができる。

まずラテンアメリカ諸国が、客観的な自由度よりも高い自由を感じていることである。日本については、客観的な制度としての自由度は高いのだが、人々は実際に自由を感じていない。またそれとは反対に、イランやサウジアラビアでは、客観的な自由度が世界で最低レベルであるのにもかかわらず、そこに住む人々は、日本よりも自由だと感じている。

たとえ環境としての自由が整備されていても、そこに住んでいる人が自由を感じていないのならば、その社会は窮屈に感じるだろう。ラテンアメリカの幸福度が高いこと、そして日本の幸福度があまり高くないことと、無関係ではないはずである。

さて、それでは日本人はなぜ、それほどまでに自由を実感じていないのだろうか。

次回から、もうすこし掘り下げて考えていきたいと思う。




2010年12月10日金曜日

裁判員裁判の是非

死刑を求刑されていた鹿児島老夫婦殺害事件で、裁判員は無罪と判断した。
http://www.asahi.com/national/update/1210/SEB201012100004.html

これは凄いことだ!と思ってしまった。裁判員裁判制度がはじまってから、厳しい判決が出る傾向があるなあ、と考えていた矢先だったからだ。

あたりまえの話だが、真実がどうかと判定することは難しい。今回の判決にしても、最近の検察による不祥事で、裁判員が検察をあまり信用しなくなったという影響もあるだろう。検察側からしてみれば、一部の不祥事によって、検察全体の信用が落ちることに不満もあるかもしれない。「自分は真面目にやっているのに」と思う検察官も多いに違いない。

しかしながら、日本では検察が起訴した場合の有罪確定率が99.9%という、とんでもない事実を忘れるべきではない。要するに、検察が「起訴」すると、「有罪」が確定するので、ある意味では裁判所も弁護士も必要ない。大阪地検特捜部の証拠改ざん事件などは、そういった司法システムの歪みから生じた事件ともいえるだろう。

そこで市民が参加する検察審査会は、巨大化した検察の権力をけん制する解決策として導入された。しかしこれは、「不起訴」になった事件を必要ならば強制的に「起訴」できるものであって、起訴されたものを「不起訴」にすることはできない。それでも、裁判所がまともに機能していれば問題ないのだが、現実はちょっと複雑のようである。裁判官にとっても、検察が起訴したものに「無罪」を言い渡すことは、検察を敵に回すことになる。そこで自己保身のために、そのまま有罪にする誘惑に駆られてしまうこともあるだろう。

したがって、最後の頼みの綱が裁判員裁判となる。一般市民にとって、検察の有罪確定率が上がろうが下がろうが、まったく関係ない。もちろん素人によって判断されるという危険性もあるだろう。しかし最終的には、社会的な正義は社会のコンセンサスによって決定されるべきではないだろうか。その意味でも、今回の無罪判決は、日本の司法制度において非常に意味のある判決といえるだろう。