2010年7月30日金曜日

幸福度について: ②出生率と幸福度




ひとりの女性が一生のうちに産む子供の平均人数を「合計特殊出生率」といい、通常は「出生率」とよばれる。そして出生率が2.0以下になると、その国の人口を維持することはできないので、人口は縮小していくことになる。

幸福度の調査をみてみると、幸福な国の出生率は一般的に高い傾向がある。そして出生率と密接に関わっているのが、女性にとってどれだけ平等な社会であるかである。

男女の平等を計る指標として、男女平等指数(Global Gender Gap Index) がある。これは世界中から政治、実業界、学界の著名な指導者たちがスイスのダボスで一堂に会する、世界経済フォーラムが発表している指標だ。

出生率が低い国として、イタリア(1.3)、ギリシャ(1.36)、日本(1.37)、韓国(1.2)、シンガポール(1.08)があげられるが、それらの国は男女平等指数が、おしなべて低い。つまり男尊女卑の傾向が高いということだ。また東ヨーロッパ諸国の出生率も1.2から1.4と世界的に見て低い傾向がある。男女平等指数では、日本やアジア諸国ほど低くはないが、西ヨーロッパには遠く及ばない。

先進諸国の中では、男女平等の度合いが高い国は比較的に出生率も高く、国民の幸福度も高い。イタリアやギリシャは、比較的に男尊女卑の傾向が強いので出生率が低く、また幸福度も西ヨーロッパのなかでは最低である。

先進国で出生率が高い国は、出産や育児に関して女性が働きやすいように優遇されている傾向がある。たとえば、フランスやドイツをはじめとする多くのヨーロッパ諸国は、父親もしくは母親が育児のために職場を離れても、ひとりの子供につき最高で3年間まで同じ職場が保証されている。その間の給料は出ないが、同じ職場、もしくは同等の勤務条件に復帰できる保証があることは、子供を産むための大きな後押しとなっている。

こういった女性を優遇する動きは、政府が積極的に政策としてやっていかなければ、実現するものではないだろう。したがって、女性優遇政策をおろそかにしてきた国々は、必然的に出生率が下がるという結果になっている。ちなみに日本は、男女平等指数が世界130国中98位と、世界でも最下位グループの一員となっている。

その一方で、出生率が高いからといって、幸福な国であるとはかぎらない。特に先進諸国以外では、出生率の状況は若干違っている。ラテンアメリカ、アフリカ、アラブ諸国では、男女平等指数のランキングが低く、特にアラブ諸国とアフリカは、世界最低の男女平等指数を示している。しかしながら、出生率は先進諸国よりもおしなべて高い。

アフリカのマリは7.3、ニジェールは7.2、そして中東のイエメンは6.4である。したがって発展途上国とアラブ諸国においては、男女平等指数と出生率の相関関係は成り立たない。ただしラテンアメリカは、欧米諸国に比べると男尊女卑の傾向があるが、日本よりは男女平等の社会である。ちなみに日本よりも男女平等指数が低いのは、アジアでは韓国、インド、ネパールであり、あとはアラブとアフリカ諸国のみである。順位は、韓国が108位、インドが113位、ネパールが120位。そしてインドの出生率は2.7、ネパールは3.9である。

出生率が高い国は、必ずしも幸福な国とはいえない。しかし幸福度が高い国で、出生率が低い国はない。そして出生率が低い国は、あまり幸福な国ではない。幸福な国だから出生率が高いのか、出生率が高いから幸福な国になるのかという因果関係は、これだけのデータではわからない。しかし先進国にとって出生率をあげることは、幸福度が上昇する可能性が非常に高い。それは人口の半分を占める女性が住みやすい社会へと変革することなので、国民全体の幸福度への効果も大きいだろう。


男女平等指数: 
出生率: 

2010年7月28日水曜日

幸福度について: ①太陽と幸福度

ニューカレドニアやハワイなどの南国の島に住む人々は、極寒のシベリアやアラスカに住む人々よりも幸せそうなイメージがある。では実際に、気候と幸福度に何らかの相関関係はあるのだろうか。

南国の島で日照度の多い南国、たとえばフィジー、タヒチ、バハマ等の島国は、いくつかの幸福度調査の結果を見るかぎり、世界でも中の上ぐらいの幸福度だ。これは日本よりは少し高い程度である。また赤道付近にある国として、南米のエクアドル、インドネシア、シンガポール、そして中央アフリカをはじめとする多くのアフリカ諸国があるが、エクアドルは他のラテンアメリカ諸国と比べても幸福度はむしろ低いほうであり、インドネシアとシンガポールも特別に幸福度が高いわけではない。そしてアフリカ諸国の幸福度は、世界でいちばん低い。したがって、赤道付近の国々と幸福度には関連性は見られない。

幸福度の調査でいつも上位を占めている国々は、むしろ北部の日照度が少ない位置にある国が多い。常にトップの北欧諸国では、極夜という日照時間がゼロの日が冬に訪れる。その反対に夏には白夜が訪れ、一日中日が沈まない。そこで北欧の人々は、夏期は昼夜を問わずに街は人であふれるが、冬期になると心持ち表情も暗くなり、外出も控える傾向にある。そしてアイスランドに至っては、国土の一部が北極圏に入る寒冷地である。それにもかかわらず、幸福度では世界でトップクラスに入っている。また、アメリカ大陸でもっとも北にあるカナダの幸福度も非常に高い。

ただし、寒い地域の幸福度が高いわけではない。ロシアの幸福度は世界的にみても非常に低く、また緯度的には北欧諸国に近いバルト三国の幸福度も非常に低い。

南国でも極寒でもなく、穏やかな気候の国には幸福な国が多いという説もある。しかし、どの程度を「穏やかな気候」と判定するかは難しく、また例外が沢山あるので、やはり気候と幸福の関連性を見つけることは困難である。

結論として、各国の気候と幸福度には何の相関関係も見れないということである。

どんなに厳しい気候条件でも、人類は適応してしまうという特徴があるためなのかもしれない。人類がその場所で定住して社会をつくるという時点で、人々の幸福度は、その社会がどのような社会であるのかが重要となってくるのだろう。


幸福度調査:
http://worlddatabaseofhappiness.eur.nl/
http://www.happyplanetindex.org/explore/global/life-sat.html
http://www.worldvaluessurvey.org/
http://en.wikipedia.org/wiki/Satisfaction_with_Life_Index

2010年7月24日土曜日

ブータンは本当に幸福な国か









1972年、ヒマラヤ山脈南麓の小国ブータンでは、当時16歳のシグミ・シンゲ・ワンチェクが第4代国王に即位した。そしてまもなく彼は、ブータンの将来について「GNP(国民総生産:Gross National Product)ではなく、GNH:Gross National Happiness(国民総幸福量)を国家の目標にするべき」と発表した。


しかしこの事実は、1986年に英国フィナンシャル・タイムスのマイケル・エリオット記者が報道するまで、世界にほとんど知られていなかった。


近年では、GNHという概念は徐々に世界に浸透しつつある。最近はイギリスやフランスの政府でも、国民の幸福度について真剣に政治課題として議論されている。また日本の鳩山前首相も「国民の幸福実現に向けて、幸福度を調査する」と発表した。そして当のブータンは、いまや幸福な国家の象徴ともなりつつある。しかし、果たして実際にブータンの国民の幸福度は高いのだろうか。

レスター大学の調査では、ブータンは178国中12位であり、幸福度の調査で常に上位を占めている北西ヨーロッパ諸国と肩を並べている。ブータンの一人当たりGDP(購買力平価換算)は約5,000ドル(約45万円)であり、名目の一人当たりGDPでは、わずか1,300ドル(約12万円)でしかない。これは北西ヨーロッパ諸国の10分の一程度であることを考えると、ブータンの幸福度は例外的に高いことがわかる。まさしく「お金はないが、幸せがいっぱい」という、絵に描いたような国家が実現しているのである。


しかしながら、レスター大学以外でも幸福度の調査はたくさんあるのだが、ブータンの幸福度については他の資料がいまのところ存在しない。そこで、このひとつしかない結果については、もうすこし注意深く見る必要があるだろう。






ブータンの人口は、わずか70万人にも満たない。これは日本の都道府県で2番目に人口が少ない島根県や、東京23区では練馬区とほぼ同じ数である。また、ブータンの人口密度は18.1人/km²であり、島根県の114人/km² や練馬区の14,820人/ km²に比べると、極端に低い。言いかえると、ブータンの人口密度は、島根県の約6分の1、そして練馬区のなんと800分の1である。これはブータンの人口の80%以上が農家であることが関係している。

ブータンは周囲をヒマラヤ山脈に囲まれているため、国全体が厚い雲によって隠されてしまうことがよくある。私がブータンを訪れた時に乗った飛行機は、天候の悪化で予定どおり到着できず、国境を越えたインド国内の飛行場で臨時着陸して、天候の回復を待つことになった。しかし数時間待っても天候が回復しなかったため、結局私の飛行機は出発地のコルカタへもどり、一晩を過ごすこととなった。翌日は無事にブータンへ到着することができたのだが、近くに座っていたインド人は「今回はラッキーだ」と、着陸前に手をたたいて喜んでいた。話をよく聞くと、前回彼がブータンを訪れた時、なんと7日間もつづけて着陸できなかったらしい。

ブータンに入国することは、天候の他にも障害がある。普通の観光客がブータンに入国することが許されたのは、1974年以後のことだ。しかし政府は、弱小国であるブータンの文化を守るために、毎年入国できる人数を制限してきた。近年では人数制限はなくなったが、事前に政府直属の代理店を通して日程をすべて決める必要があり、さらに一泊につき最低200ドルを支払わなければならない。この金額には宿泊代、食事代、交通費、そしてガイド代も含まれるが、個人で自由に行動することは制限されている。そのためにブータンを訪れる外国人は、ほとんどが金銭的にゆとりのある高齢者の団体で、若いバックパッカーなどはほとんどいない。


しかしそれは、政府の目論見どおりなのであろう。世界中から若者が集まってくるネパールのカトマンズやポカラでは、現地の若者たちの西洋化が、急激な早さで進んでいる。そのような状況を目の当たりにしていたからこそ、ブータンはあえて鎖国のような形をとることで、自国の文化を守ろうとしているのである。


ブータンでは母国語としてゾンカ語が話されているが、学校の授業などはすべて英語で行われる。英語は事実上の公用語である。そのため、私が出会ったブータンの人々は、みんな流ちょうな英語を話していた。自国の文化を守るために外国人旅行者の数を制限しているほどの国が、学校教育をすべて外国語にしていることは、一見すると矛盾しているようにも思える。しかし英語が公用語となることで、国際的な視点が身につくのは間違いない。特筆すべき点は、若い人々が驚くほどしっかりと自国の文化とその政策についてしっかりとした意見を持っていることだった。そして政府は、優秀な学生を留学生として世界各国の大学に派遣している。海外に留学した学生は、ヒマラヤの小国をよりよい社会にするため、90%がブータンにもどり、祖国のために働いている。

これは幕末から明治初期にかけての日本に似ている。海外に出た日本人留学生たちが、開国後の日本の発展に大きく貢献したことはいうまでもない。

ブータンはひとりあたりの実質年間GDPが12万円程度と、数字上では発展途上国に属する。しかしながら驚くべきことに、教育と医療が無料というヨーロッパ並みの社会福祉が完備している。これはブータンが山岳地帯という地理的条件を利用して水力発電を活発に行い、電力をインドに売却して外貨を稼いでいることが大きく貢献している。そして政府は4つの柱という、4つの基本理念によって国家を運営している。

4つの柱とは以下のとおり。
(1) よい統治
(2) 公正な経済発展(経済成長と開発)
(3) 文化遺産の保護と伝統文化の継承・振興
(4) 環境保全


この4つの柱のうち、「よい統治」以外の3つは非常にわかりやすい。そもそも「よい統治」とは、いったいどのような統治を差して「よい」とするのか、かなり曖昧な概念である。結論からすれば、国民の幸福度が高ければ、それがよい統治ということになるのだろう。そこでGNHを研究しているブータン研究所は、国民の幸福度を測るために9つの領域を示している。


9つの領域とは、(1)生活水準(2)健康(3)教育(4)生態系と環境(5)文化の活力と多様性(6)バランスのある時間活用(7)よい統治(8)コミュニティーの活力(9)心理的な幸福感である。


しかし、ここには自分の人生を思い通りにコントロールしているかという、個人の自由度に関する項目はない。それは、ブータンの人口の大半が農民であるという事実にも関連しているのだろう。そしてもうひとつ、そこにはあまり語られていないブータンの恥部がある。個人の自由や人権について、ブータン政府が公言できない理由が隠されているのである。



ブータンの恥部


ブータンの母国語がゾンカ語であることはすでに述べたが、実はブータンは多民族国家であり、人口の6分の1近くはネパール系の住民で占められている。1980年代後半になると、増加しつつあるネパール系住民に対して、ブータン政府は危機感をつのるようになった。人口構成比への脅威と、文化の存続への脅威である。


実は先例として、1975年に隣国であったシッキム王国が、ネパール系住民の増加でインドに併合されてしまったのである。そこで政府は、出生率の高いネパール系住民へ神経質になっていた。


そして1990年代になると、政府はネパール系住民を強制的に国外退去させていった。いわゆる民族浄化である。その時に、拷問などの人権侵害があったという報告もされている。人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチによると、ブータン国籍を剥奪されたことで、ネパールにある難民キャンプで生活する人々は、現在約10万人いる。ブータンの人口が70万人程度であることを考慮すると、これはかなりの数である。


文化を守るという大儀があるとはいえ、人権の侵害するようなブータン政府の行為は、個人を軽視するという、典型的な集団主義である。


もとよりブータンは、先進諸国のような産業が中心とした社会ではなく、村社会としての集団主義的な側面を強く残しているのが現状である。これは社会心理学者エーリッヒ・フロムが指摘した、個人主義が台頭する以前の社会と似ているのかもしれない。したがって、今後もブータンの経済構造が変化しないのならば、個人の自由や人権については、あまり重視されない可能性はある。


それは裏を返せば、今後ブータンが国際社会からの影響を受けていくにしたがって、人々がもっと個人主義的に変化していくことも充分に考えられる。その時には、「個人の自由度」という項目が追加されるのかもしれない。しかしながら、それはブータンの伝統ではないとして、かたくなに拒否する可能性も考えられる。


ここで、ブータンに関するその他のデータを見てみよう。


ブータンの平均寿命は66.1歳である。これは他の先進諸国に比べて10歳以上も短い。ブータンの経済状態から考えると、高度な医療を国民全般に普及させることが困難なのであろう。そこで幼児死亡率は、先進諸国の約10倍と非常に高い。また、高齢者を始め、多くの重病患者への医療が先進国並みに提供できないことは、ブータンの平均寿命が比較的短い大きな原因のひとつだと推測できる。


それからブータンの識字率は、なんと47%である。これは世界でも最低のレベルだ。国民の半分以上が、文字が読めないことから、学校教育が無料という名目でも、実際には多くの子供が学校に通っていないのが実態であろう。これも、奥深い山に住む農家が中心となっている人口構成が理由だと考えられる。そこで「社会福祉がすべて無料」という宣伝文句は、額面どおりに受け取るべきではない。


いずれにせよ、ブータンを「幸福度の高い国を目指している」として、ひとつの手本とすることはできるかもしれないが、国家のサイズ、地理的条件、産業構造、経済発展の進度と、どれをとっても現在の日本とはかけ離れている。


もしも「日本を江戸時代の生活に戻す」という名目をかかげ、知識人を国外へ追放し、国民のほとんどを自給自足の農民へと強制的に就労させる、などという政策を断行するならば、話は別かもしれない。ただし1970年代、カンボジアのポルポト政権では、それと似たような思想があった。その結果として、近代科学を一切否定し、知識人階級をはじめとする数百万の同国民を虐殺している。

教育を受けていない人々を、国の政策として無教養のままにすることはできるだろう。しかし日本のような先進国において、教育レベルの高い国民に対して、すべて農家になることを強要するのは現実的ではない。これまで人類の歴史という大きな流れのなかで、世界のどこでも「個人の選択の自由」を獲得する精神が養われてきた。そして選択の自由は、多様なライフスタイルを必然的に生み出す。しかし時には、自由を人為的に抑圧しようとする国家も現れた。全体主義や、イスラム原理主義などはその例である。しかしそういった国家でも自由を求める動きが消えたことはない。長期に渡って国家が自由を抑圧しつづけることは困難であろう。

ブータンが近代化を目指さない限りは、現在の幸福な国家を維持できるかもしれない。しかしそれは同時に、これから先もブータンに入ってくる情報と人の流れを制限すること、つまり鎖国のような状態を維持する必要があるだろう。したがってブータンのGNHという政策は、残念ながら日本を始め多くの国にとって、国家の目標とならないばかりか、あまり参考にもならないだろう。


2010年7月1日木曜日

幸福度の調査は、本当に無意味か?

最近、「幸福度」についての話題が目につく。
日本の科学者は主要国で最も不幸せ--。こんな調査結果を、英科学誌ネイチャーが初めてまとめ、24日付で発表した。満足度1位はデンマークだった。日本人は他国に比べ、休日が少なく研究テーマの選択で裁量が小さいとして強い不満を抱いていた。科学技術立国を掲げる政府だが、科学者が将来の展望を抱けるような政策が求められそうだ。
http://mainichi.jp/select/science/news/20100624k0000m040127000c.html

そして、反論としてかならず出てくるのが、次のようなものだ。
「幸福度という主観的なものを、国民性の違いを無視して比較しても意味がない」

さて、はたして本当に幸福度の調査には意味がないのだろうか。

幸福度調査というのは、本人に直接「あなたはどの程度満足していますか」とたずねることである。日本人は外国人よりも謙虚だから、そういった点を考慮しなければいけないという理屈は理解できる。しかし、いくら謙虚さが美徳であると感じている国民でも、
「あなたはどの程度、いまの生活に満足していますか?」
という質問に対して、内心では10段階で10の満足だと感じているのに、わざわざ8とか9、もしくはもっと低い数字をアンケート調査の紙に書き込む、などという状況がありうるのだろうか。
ちょっと穿った見方をすれば、日本人の幸福度が低いという結果を正当化するために、無理やりこじつけられた理由のように聞こえてしまう。

するとここに、2つの段階にわたって疑問が残る。最初の疑問は、
「日本人は自己の満足度を正しく表現しないのではなか」という仮定に対する、そもそもの信憑性である。この仮定を検証する方法を見つけるのはなかなか難しい。しかし少なくとも、この仮定を何の疑問もなしに受け入れる理由はない。この件に関しては、関連する調査結果がでることを待たねばならない。しかしながら、次の段階を考えることで、この問いに対する一種の方向性を見出すことができる。

そこで次の段階として、もしも「日本人は自己の満足度を正しく表現しない」ということが証明されたと仮定してみよう。これはつまり、日本という文化が、「満足していても、それを表現することはよくない」もしくは「幸せでも、幸せであることを見せてはいけない」という風潮があることになる。これはあくまで仮の話だが、もしも日本人にとって、自分の満足状態や幸せを正しく表現することに抑圧的なプレッシャーがあるならば、これは幸福度調査の信憑性などよりも、もっと根本的な、違う次元の問題が発生してくる。

人の喜びや、充実した感情を表に出すことをはばかることは、個人の感情表現を抑圧するのと同じである。本当は幸せなのに、本人がそれを表現できなければ、それは本当に幸せだと言えるのか、甚だ大きな疑問がのこる。

笑いたいときに思いきり笑うことができず、楽しいときに楽しいと表現することもできないならば、そのうちに笑いや楽しみも半減してしまうだろう。心の底から嬉しいときに、その嬉しさを表現しなければ、嬉しいという感覚も鈍感になってくる。自己表現を奪われてしまった心は砂漠のように乾きはて、潤いが宿ることを拒絶するだろう。文化や伝統という名のもとに、個人の満足感を表現することさえ抑圧されてしまうのであれば、そのような習慣を存続させる意味自体が大きな疑問だ。


日本では、「常識」や「世間体」という見えない権威によって、人々が束縛されている実情がある。そこでもしも、本当は「非常に幸せ」だと自分では感じているのに、アンケート用紙の「非常に幸せ」にチェックをすることにためらわせるようなプレッシャーがあるならば、その背景には「幸せであると他人に告げることは控えなければならない」か、もしくは「幸せになることはよくない」という社会的圧力が働いているはずである。

つまり社会が個人の自己表現を抑圧しようとするか、もしくは幸せになること自体を悪とするかの、どちらかでなければ、生活満足度や幸福度の自己評価を一律に国民全体で低く見積もるという事実にはならない。もしも社会が、幸せになることを悪とするか、もしくは幸せだと表現することがよくないと抑圧しているならば、そのような社会は「幸福な社会」とはほど遠いことになるだろう。

つまり「日本人は満足していても満足だと表現しない」という仮定が真実であろうがなかろうが、いずれにしても、日本人の幸福度が低いことに変わりはないだろう。したがって、主観的な満足度を調査することは非常に有効な手段であると考えられるが、どうだろうか。