2010年8月27日金曜日

幸福度について: ⑦寛容さと幸福度

ある国の幸福度を知るために、非常に大きな手がかりとなる指標がある。その国が、どれほど個人に寛容かである。

社会での寛容さとは、他人とまったく違う思想、行動、言動であっても、それを平等に認めることである。つまり寛容な社会では、人々にとって選択の自由が広がることになる。

ワールド・バリュー・サーベイ所長であり、米国シカゴ大学教授のロナルド・イングルハート氏は「人間はおびえずに生きていれば、それだけ他人にも寛容になれる」と語っている。これは、ルーズベルト第32代米大統領が宣言した「人類に普遍な四つの自由:①言論の自由、②宗教の自由、③欠乏からの自由、④恐怖からの自由」にも通じている。

もっとも、当時ルーズベルトが提唱した「④恐怖からの自由」は、国家の侵略行為など、政治的な意味として使われた。しかしそれは、政治の話にとどまらないということだ。自分が自由であるならば、人とも自由を分かちあおうとする心理が働くのであろう。

では、どうすれば、ある国の寛容さを調べることできるのだろうか。

たとえば、本人に直接「あなたはどれだけ他人に寛容ですか」と尋ねるのはどうだろう。しかし寛容さとは、なかなか自分で客観的に判断できるものではない。そもそも、どうやって自分の「寛容さ」を決定すればいいのか、基準が非常に曖昧(あいまい)な点もある。そこで寛容さを調べるためには、何か、より客観的な視点が必要となってくる。

ひとつの方法がある。その国が、大多数の人々とはまったく異質な人の権利をどれだけ保障しているかを見ればいいのである。つまり、少数派の人々にどれだけ「懐の深さ」があるかを見ることである。

ひと言で「少数派」といっても、社会にはいろいろな少数派が存在する。たとえば、民族や人種としての少数派だ。しかしこういった少数派については、各国の歴史的な事情によって大きな違いが存在している。アメリカをはじめとする、移民によって作られた国と、日本のように国民の圧倒的大多数が単一民族である国を、単純に比較することはできない。そこで、世界のどこの国でも少数派の立場となっている人々を見る必要がある。

どの社会でも、常に少数派である人々とは、近年「LGBT」と称されている、性的少数者である。LGBTとは、Lesbian(女性同性愛者)Gay(男性同性愛者)Bisexual(両性愛者)Transgender(トランスジェンダー)の頭文字である。そして、近年多くの国で議論の対象となっているのが、同性愛者間での結婚を、法律でどのように扱うかという問題である。

北欧を含む西ヨーロッパでは、ほとんどの国で事実上の同性結婚を認めている。例外は、イタリアとギリシャのみである。そしてイタリアとギリシャの幸福度を見ると、西ヨーロッパの中では最低である。

東ヨーロッパのほとんどの国では、同性結婚を一切認めていない。そして東ヨーロッパの幸福度は、世界最貧国のアフリカ諸国並みに低い。

ラテンアメリカでは、アルゼンチンが近年になって同性結婚を合法化しており、ブラジル、コロンビア、エクアドルでは、事実上の同性結婚を認めている。そしてラテンアメリカの幸福度は、世界的に見ても非常に高い。

それとは対称的に、多くのイスラム教国では同姓結婚どころか、同性愛そのものが違法となっている。特にサウジアラビア、イラン、イエメン、モーリタニア、スーダンでは、同性愛者は死刑の対象である。イスラム教国で、幸福度が高い国はほとんどない。ひとり当たりGDPが世界で一番高いカタールや、世界最大の原油埋蔵量があるサウジアラビアを見ても、その裕福さと比較して幸福度は高くない。

アフリカでは、同性結婚を認めているのは南アフリカのみである。アフリカでは伝統的な価値観が強いことと、さらに多くのイスラム教徒を抱えていることもあり、ほとんどの国で同性愛が違法となっている。そのようなアフリカが世界最低の幸福度であることは、すでに述べた。

そして日本では、同姓結婚が認められていないばかりか、政治的な話題にさえあがっていない。隣国の韓国でも状況は日本と同じで、幸福度についても韓国は日本よりも一貫して低い。

ここで、まとめをしてみよう。幸福度の高い国では、同姓結婚を認めているケースがほとんどであり、同姓結婚を認めていない国で、幸福度の高い国はない。唯一の例外は、世界でもトップクラスの幸福度の高いコスタリカのみである。しかしコスタリカでも公式に合法化の動きは進んでおり、2010年4月にアリアス大統領は同姓結婚合法化の支持を表明している。また、全般的に幸福度の高い中南米諸国でも、同性愛を違法としているジャマイカ、ベリーズ、ガイアナ、グレナダは、比較的に幸福度が低いという結果がでている。

寛容さを調べるには、同姓結婚以外にも方法がある。

男女がどれほど平等に扱われているかを見ることである。それは、すでに前述した男女平等指数を活用すればいい。
http://mezaki.blogspot.com/search/label/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E5%BA%A6%E3%80%80%E5%87%BA%E7%94%9F%E7%8E%87

世界で最も男女平等が進んでいる国は、アイスランドである。そして2位はフィンランド、3位ノルウェー、4位スウェーデン、5位ニュージーランドとつづく。やはり上位は、欧州諸国が独占している。そしてこれらの国は、幸福度でも常に世界の上位を占めている。

例外は、6位の南アフリカ、9位のフィリピン、10位のレソト、16位のスリランカである。しかしながら、南アフリカ、フィリピン、レソト、スリランカのいずれの国も、ひとり当たりGDPが100万円以下である。したがって、いずれの国も幸福度は低い結果となっている。つまり、男女平等指数が高いのにもかかわらず幸福度が低い国は発展途上国だけの現象であり、先進国には当てはまらない。

南アフリカは、アフリカで唯一、同姓結婚も認めているのだが、幸福度は世界的に見てもかなり低い。南アフリカのひとり当たりGDPはちょうど100万円を割り込む程度であり、最貧国ではない。しかし、長年つづいた人種隔離政策と、その後の政策転換による反動などで、社会はいまだに安定しているとはいえない。犯罪率は世界でも最悪であり、特に凶悪犯罪の数は多い。失業率は20%以上もあり、貧富の格差も大きく、社会全体にエイズも蔓延している。そこで平均寿命は、わずか42.1歳である。そうした社会的な不安定さは、南アフリカの幸福度を低くしている原因と考えられる。したがって、国の制度として同姓結婚や男女の平等を推進しても、他の社会条件があまりにも劣悪な場合は、幸福度は上がらないということである。いずれにせよ、南アフリカは数少ない例外のケースと考えていいだろう。

ひとり当たりGDPが100万円を超える国で、男女平等指数が比較的に高いのにもかかわらず幸福度が低い国は、東ヨーロッパのみである。共産主義という名目のもとでは、男女ともに労働にいそしむという風潮があったからかもしれない。しかし東ヨーロッパでは同姓結婚がまったく認められていないように、個人にとっての寛容さはまだ低いといえる。したがって男女平等指数が高いことに加えて、同姓結婚が認められているという両方の条件を満たしていることが、寛容度の高さを表すことになる。

日本の男女平等指数は、134国中101位である。これは最下位を独占しているイスラム教国を若干上回る程度であり、アフリカのジンバブエ、マラウィ、タンザニア、バングラデシュ等の世界最貧国よりも低い指数である。

日本の男女指数の内訳を見てみると
① 経済参加と機会 108位
② 教育の格差     84位
③ 健康と生存     41位
④ 政治力       110位

となっている。つまり健康と生存以外は惨憺たる結果である。また、経済参加と機会において同一労働での男女給与格差が99位、男女収入格差では100位、女性の労働参加では83位、女性管理職の数では109位、専門職での女性の数は77位であった。しかし教育の格差での識字率、小中学校での男女格差はゼロなので世界1位だったが、大学では男62に対して女54、つまり女性の比率が男性の0.87であり、これは98位だった。健康と生存では、平均寿命が世界1位であったが、出生時の男女比では89位だった。政治力では、女性国会議員数が105位、女性の大臣職では85位であり、過去50年で女性の国家元首の数はゼロである。ただしこの順位は41位であり、世界のほとんどの国では女性の国家元首は誕生していない。

男女の格差において、賃金格差などの労働条件を平等にするためには、法律によって厳格に定めることが最低条件として必要であろう。しかし法律をつくる国会議員の大多数が男で占められていれば、女性にとって不利な社会が継続されてしまう可能性が高い。そこで女性の国会議員の数は、社会での男女平等の象徴的な役割を表すともいえるかもしれない。

日本の国会議員で女性の占める割合は、2009年の衆議院選挙の結果で若干増えはしたが、それでも全体の11.3%である。国際組織である列国議会同盟の調査によると、この割合は世界147ヶ国中96位であり、先進国では断トツに最下位である。

また日本と社会構造が似ている韓国は、男女平等指数が115位であり、内訳は①113位、②109位、③80位、④104位となっている。内容としては、健康と生存が若干高いが残りは低迷しているという、日本と同じ傾向を示している。韓国の女性国会議員の比率も13.7%(87位)と、日本と非常に近い値である。

ちなみに女性国会議員の比率が世界でいちばん高いのは、アフリカのルワンダ(56.3%)、スウェーデン(46.4%)、南アフリカ(44.5%)、キューバ(43.2%)アイスランド(42.9%)である。

特筆すべきは、ネパールの33.2%、アフガニスタンの27.3%、イラクの25.5%、パキスタンの22.2%、中国の21.3%と、いずれの国も大きく日本を引き離している。パキスタンは日本の2倍、アフガニスタンでは3倍に近いということである。また男女平等指数で9位となったフィリピンはアジアで最貧国のひとつだが、幸福度は日本よりも平均的に若干高い。これは女性国会議員の比率が21%と、日本よりも圧倒的に多いこととは無関係ではないだろう。

ただし、日本社会での男女格差を判定する場合、統計上には出にくい部分を考慮しなければならない点もある。

確かに女性国会議員の数や、賃金格差などの統計的に表れる数値が重要なのは間違いない。しかし総合順位が、敬虔なイスラム諸国とあまり変わらないというのは、驚くべき事実でもある。イスラム教国では、いまだに女性の参政権が与えられてない国も多く、またサウジアラビアでは女性が車や自転車を運転することも禁止されている。さらに多くのイスラム教国では、女性は夫と親族以外に顔を見せることが禁止されているなど、女性の行動が厳しく制限されている。そして何よりも、イスラム教では一夫多妻制が認められている。そういった極端な男女格差のあるイスラム社会と日本が大差ないという結果なのだから、日本の男女格差は深刻な問題なのかもしれない。

ところが日本の多くの家庭では、毎月の給料を全額妻に渡し、夫はそこからお小遣いをもらうという習慣がある。これは実質的に女性が家庭での権力を持っていることと等しいかもしれない。ちなみにこのような習慣は、日本以外では存在しない。また家庭内での消費の決定権はほとんど妻が握っていることが多く、こういった日本女性の隠された権力は統計に出てこない。

しかしながら、女性が家庭内の消費の決定権を握っているという事実は、日本にかぎらず欧米その他、世界中の社会でも見られる傾向でもある。またイスラム教国であるパキスタン、イランは、男女平等指数がそれぞれ134ヶ国中132位と128位と最下層であるが、私がそれぞれの国で数ヶ月滞在する中で、現地で出会った女性たちは、意外にもそれほど不自由さを訴えていなかった。そのような統計から見えない現実を充分に考慮しても、10%程度しか女性の国会議員がいないという日本の現実は、かなり特異な状態といえる。民主主義社会において、法律をつくる役割を担う国会議員が、国民の約50%を占める女性の1割しかいないということは、法律が男性優位につくられてしまう懸念があるだろう。

もっともこれが兵士などの、男女での圧倒的な肉体的差が出てくる職業であれば話は別であるし、また必ずしも、女性議員がきっちりと50%になる必要はないかもしれない。しかしながら、国民を代表する立場の国会議員のうち、女性がほんの一割しか代弁できないようでは、女性にとってフェアな社会をつくることは難しいだろう。そして女性に平等な社会でなければ、個人や少数派に寛容であろうとする姿勢も希薄となることは、これまでのデータで明らかになっている。


なぜ日本では、男女平等が進まないのか


ワールド・バリュー・サーベイの調査で、次のような質問がある。
「仕事が少ない場合、男性のほうが女性より先に仕事につけるようにすべきだ」という項目に対して、同意できるかどうかを尋ねたものである。

これは、男女の労働する機会をどのように考えているかを見ることができる。日本は27.1%が「同意できる」と答え、17.9%が「同意できない」と回答した。残りの55%は「どちらでもない」と答えた。この結果から、ちょっと複雑な、日本独特の事情が見えてきた。

まず27.1%の「同意できる」という回答だが、これは56国中29位の多さであり、上位はイスラム教国が独占している。エジプトは89.1%、ヨルダンは88.2%、イラクは83.9%の人が、男性を優先することに「同意できる」と答えている。イスラム教国につづいて多いのはアジア各国で、インド、台湾、中国、ベトナムが、それぞれ51.4%、43.6%、42.3%、40.8%である。そして少ない国では、スウェーデンの2.1%、ノルウェーの6.5%、アメリカ合衆国の6.8%と、欧米諸国が独占している。

「同意できない」と回答した割合については、17.9%の日本は下から6番目であり、下位を占めるイスラム教国と肩を並べている。エジプトが4.3%、ヨルダンが7.9%、マレーシアが15.2%、イラクが16.1%である。そして欧米諸国は、約75%から90%以上が「同意できない」と答えている。

しかしここで注目すべきなのは、「どちらでもない」と答えた割合である。日本の55%は世界でも断トツに多く、その次は韓国の37.1%、マレーシアの35.7%、香港の34.3%と、アジア各国が独占している。

以上の結果から、わかることをまとめてみよう。

日本の職場で、男女の雇用差別をあからさまにやろうとは思う人は3割未満だが、大多数の人は、たとえ雇用差別があっても反対しようとは思わない。また積極的に男女差別に反対する人は、2割にも満たない。そして半分以上の人は、男女の雇用機会ということについて考えたことがないのか、もしくは意見を持っていない、つまり「わからない」ということだ。そこで、過去からつづけてきた男尊女卑をそのまま継続しているのである。これは、現在の日本社会を象徴している結果ともいえるのではないだろうか。

つまり日本には、極端に不寛容な人がそれほど多いわけではない。ここはイスラム教国とは大きく違う。イスラム教国では、8割以上が男女差別を当然と考えているからだ。しかし日本では、大部分の人が問題意識を持っていないために、男女差別があっても見過ごしているのである。つまり、男女差別に積極的に同意はしないが、消極的には同意していることになる。これは「長いものに巻かれろ」や「ことなかれ主義」といった集団主義の、非常に悪い側面ともいえるだろう。

社会を改革するには、自分の意見を積極的に主張することが絶対に不可欠である。たとえそれが「間違っているのではないか」という意識があったとしても、何も言わず、何も行動をしないのでは、昔からのやり方を肯定することになってしまう。別のいいかたをすると、日本人はフェアではないと何となく理解をしていても、みんながそれをつづけていれば、「長いものに巻かれろ」の精神で従ってしまうということだ。正しくないと心の底では思っていながらも、何もせずに傍観するのは、不正に荷担していることとあまり変わらない。したがって、イスラム教国のように政策として男尊女卑を推奨している国とは構造がまったく違うが、結果として、日本の男女平等指数がイスラム教国と肩を並べて、世界最低ランクに属することになっている。


なぜ日本人は、寛容度が低いのか


男女格差や同性結婚は国家の寛容さについての大きな指標になるが、その他にも寛容さを象徴することがいくつかある。

たとえば日本では、未婚の親から生まれた子供の権利や、在日外国人などのマイノリティーに対する寛容性は、欧州に比べてまだまだ低い。また近年議題とされている「夫婦別性」の件も同じだ。

「夫婦別性にすると家庭が崩壊する」と主張している人々がいるが、本当の論点にするべきことは、別性にしたい人、つまり、社会での少数派に対して、その選択肢を与えるかどうかということである。選択制なので、国民すべての夫婦が別性にしなければいけないという話ではない。つまりこれは、「違う生活スタイルを求める人に、どれだけ寛容になれるか」という、社会の寛容さが問われている。それに対して反対の立場をとる人たちは、「別性を名乗る夫婦は夫婦と認めない」という、個人の選択に不寛容な立場なのである。これは、個人の自由よりも集団に同化することが優先されるべきだという心情が背景にあると考えられる。

それでは、日本はなぜ個人に寛容ではないのだろうか。これは、日本の集団主義的思考に共通していると考えられる。社会心理学者H.C.トリアンディスは、著書『個人主義と集団主義』で、寛容性の高い個人主義社会と、厳格な集団主義社会との違いを、次のように説明している。

たとえば、寛容性の高いヨーロッパの国では、どのような状況であっても、人は他と異なる行動をとる自由が許される。もしもその行動がうまくいかなければ、別の方法を試せばいい。そして最終的にうまくいけば、社会はその行動を賞賛する。仮に10のうち8の失敗を重ねても、ふたつの成功を成し遂げたことが重要であり、裏を返せば、寛容性の高い社会では、8の失敗をする自由が認められているのである。

その一方で、日本のような比較的に寛容性の低い社会では、どのような状況であっても、人はひとつかふたつ程度の「常識的な」もしくは「正しい」ことをしなければならない。そして失敗をすると、間違いなく非難の対象となる。そこで人は、なるべく間違いを犯さないように、他人と同じ行動をとる傾向となってくる。これは言いかえると、寛容な社会が肯定的な結果に着目するのに対して、厳格な集団主義社会が、常に否定的な結果に着目するということである。したがって集団主義では、協調性という名目のもとに、みんなが同じ行動をとることを強要され、異質な者への寛容さは自動的に最小限にとどまってしまう。

日本において多くの少数派が、大多数と同じ市民権を得ていないことはすでに述べた。ただし女性は、厳密にいうと少数派ではない。しかし「女性」という続柄によって平等な扱いをされない社会は、寛容な社会とは正反対に位置する。そして寛容性の低い社会は、集団主義の傾向が非常に高い。

日本よりもさらに寛容度の低いイスラム教国については、特に注目すべき点がある。イスラムの教えに忠実な人生を歩むことは、イスラム教という集団に対して個を放棄することでもある。実際に「イスラム」とは、「神への服従」という意味であるからだ。そしてイスラム教の教典である『コーラン』の冒頭は、「この本を疑ってはならない」で始まっている。こうした批判的精神を受け入れない態度は、厳格で硬直的な集団主義の典型でもある。またイスラムの教えに背く者への非寛容性からも、個人の寛容や自由とは正反対の傾向が顕著になっている。英国の歴史学者ロバート・レーシーは著書『Inside the Kingdom』で、イスラム教国について次のように記している。

「もしも、ある国が『コーラン』を憲法として採用するならば、すべての戦争は聖戦でなければならず、国のために戦死した者は聖戦士となり、秘密警察が神の仕事を請け負うことになる」
(拙訳)

集団主義的傾向のより強いイスラム教国が、同性愛者を違法とし、男女平等指数の最下位を独占していることは偶然ではない。またそのすぐ後を、日本を始め東アジア諸国が追随していることも、集団主義という観点から見れば、これも一貫性のある結果だと考えることができる。そして過去には、集団主義を究極的な形へつくりあげようとした共産主義があった。その影響を色濃く残している東ヨーロッパは、男女の平等は進んでいるが、その他の個人の寛容性については低い。そしていずれの社会も、経済発展のレベルに比べて軒並みに幸福度が高くないという点で一致しているということも、共通した結果である。

そして西ヨーロッパでは、同姓結婚にかぎらず、社会の少数派のほとんどが市民権を得ている。さらに男女平等指数でも、世界で上位を独占している。こういった事実は、西ヨーロッパが世界で最も幸福度が高い大きな理由のひとつであることは間違いないだろう。

集団主義とは、個人ではなく集団の利益を優先するものである。したがって、集団主義の思想があるかぎり、少数派に寛容な社会は決して成り立たないだろう。そもそも集団主義という発想自体が、価値の多様化を認めていないからである。

日本が個人の幸福度を上げるには、個人にもっと寛容な社会になる必要がある。そして個人に寛容な社会をつくるためには、集団主義という呪縛から逃れることが、最低限として必要な条件であろう。



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