2010年8月27日金曜日

幸福度について: ⑦寛容さと幸福度

ある国の幸福度を知るために、非常に大きな手がかりとなる指標がある。その国が、どれほど個人に寛容かである。

社会での寛容さとは、他人とまったく違う思想、行動、言動であっても、それを平等に認めることである。つまり寛容な社会では、人々にとって選択の自由が広がることになる。

ワールド・バリュー・サーベイ所長であり、米国シカゴ大学教授のロナルド・イングルハート氏は「人間はおびえずに生きていれば、それだけ他人にも寛容になれる」と語っている。これは、ルーズベルト第32代米大統領が宣言した「人類に普遍な四つの自由:①言論の自由、②宗教の自由、③欠乏からの自由、④恐怖からの自由」にも通じている。

もっとも、当時ルーズベルトが提唱した「④恐怖からの自由」は、国家の侵略行為など、政治的な意味として使われた。しかしそれは、政治の話にとどまらないということだ。自分が自由であるならば、人とも自由を分かちあおうとする心理が働くのであろう。

では、どうすれば、ある国の寛容さを調べることできるのだろうか。

たとえば、本人に直接「あなたはどれだけ他人に寛容ですか」と尋ねるのはどうだろう。しかし寛容さとは、なかなか自分で客観的に判断できるものではない。そもそも、どうやって自分の「寛容さ」を決定すればいいのか、基準が非常に曖昧(あいまい)な点もある。そこで寛容さを調べるためには、何か、より客観的な視点が必要となってくる。

ひとつの方法がある。その国が、大多数の人々とはまったく異質な人の権利をどれだけ保障しているかを見ればいいのである。つまり、少数派の人々にどれだけ「懐の深さ」があるかを見ることである。

ひと言で「少数派」といっても、社会にはいろいろな少数派が存在する。たとえば、民族や人種としての少数派だ。しかしこういった少数派については、各国の歴史的な事情によって大きな違いが存在している。アメリカをはじめとする、移民によって作られた国と、日本のように国民の圧倒的大多数が単一民族である国を、単純に比較することはできない。そこで、世界のどこの国でも少数派の立場となっている人々を見る必要がある。

どの社会でも、常に少数派である人々とは、近年「LGBT」と称されている、性的少数者である。LGBTとは、Lesbian(女性同性愛者)Gay(男性同性愛者)Bisexual(両性愛者)Transgender(トランスジェンダー)の頭文字である。そして、近年多くの国で議論の対象となっているのが、同性愛者間での結婚を、法律でどのように扱うかという問題である。

北欧を含む西ヨーロッパでは、ほとんどの国で事実上の同性結婚を認めている。例外は、イタリアとギリシャのみである。そしてイタリアとギリシャの幸福度を見ると、西ヨーロッパの中では最低である。

東ヨーロッパのほとんどの国では、同性結婚を一切認めていない。そして東ヨーロッパの幸福度は、世界最貧国のアフリカ諸国並みに低い。

ラテンアメリカでは、アルゼンチンが近年になって同性結婚を合法化しており、ブラジル、コロンビア、エクアドルでは、事実上の同性結婚を認めている。そしてラテンアメリカの幸福度は、世界的に見ても非常に高い。

それとは対称的に、多くのイスラム教国では同姓結婚どころか、同性愛そのものが違法となっている。特にサウジアラビア、イラン、イエメン、モーリタニア、スーダンでは、同性愛者は死刑の対象である。イスラム教国で、幸福度が高い国はほとんどない。ひとり当たりGDPが世界で一番高いカタールや、世界最大の原油埋蔵量があるサウジアラビアを見ても、その裕福さと比較して幸福度は高くない。

アフリカでは、同性結婚を認めているのは南アフリカのみである。アフリカでは伝統的な価値観が強いことと、さらに多くのイスラム教徒を抱えていることもあり、ほとんどの国で同性愛が違法となっている。そのようなアフリカが世界最低の幸福度であることは、すでに述べた。

そして日本では、同姓結婚が認められていないばかりか、政治的な話題にさえあがっていない。隣国の韓国でも状況は日本と同じで、幸福度についても韓国は日本よりも一貫して低い。

ここで、まとめをしてみよう。幸福度の高い国では、同姓結婚を認めているケースがほとんどであり、同姓結婚を認めていない国で、幸福度の高い国はない。唯一の例外は、世界でもトップクラスの幸福度の高いコスタリカのみである。しかしコスタリカでも公式に合法化の動きは進んでおり、2010年4月にアリアス大統領は同姓結婚合法化の支持を表明している。また、全般的に幸福度の高い中南米諸国でも、同性愛を違法としているジャマイカ、ベリーズ、ガイアナ、グレナダは、比較的に幸福度が低いという結果がでている。

寛容さを調べるには、同姓結婚以外にも方法がある。

男女がどれほど平等に扱われているかを見ることである。それは、すでに前述した男女平等指数を活用すればいい。
http://mezaki.blogspot.com/search/label/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E5%BA%A6%E3%80%80%E5%87%BA%E7%94%9F%E7%8E%87

世界で最も男女平等が進んでいる国は、アイスランドである。そして2位はフィンランド、3位ノルウェー、4位スウェーデン、5位ニュージーランドとつづく。やはり上位は、欧州諸国が独占している。そしてこれらの国は、幸福度でも常に世界の上位を占めている。

例外は、6位の南アフリカ、9位のフィリピン、10位のレソト、16位のスリランカである。しかしながら、南アフリカ、フィリピン、レソト、スリランカのいずれの国も、ひとり当たりGDPが100万円以下である。したがって、いずれの国も幸福度は低い結果となっている。つまり、男女平等指数が高いのにもかかわらず幸福度が低い国は発展途上国だけの現象であり、先進国には当てはまらない。

南アフリカは、アフリカで唯一、同姓結婚も認めているのだが、幸福度は世界的に見てもかなり低い。南アフリカのひとり当たりGDPはちょうど100万円を割り込む程度であり、最貧国ではない。しかし、長年つづいた人種隔離政策と、その後の政策転換による反動などで、社会はいまだに安定しているとはいえない。犯罪率は世界でも最悪であり、特に凶悪犯罪の数は多い。失業率は20%以上もあり、貧富の格差も大きく、社会全体にエイズも蔓延している。そこで平均寿命は、わずか42.1歳である。そうした社会的な不安定さは、南アフリカの幸福度を低くしている原因と考えられる。したがって、国の制度として同姓結婚や男女の平等を推進しても、他の社会条件があまりにも劣悪な場合は、幸福度は上がらないということである。いずれにせよ、南アフリカは数少ない例外のケースと考えていいだろう。

ひとり当たりGDPが100万円を超える国で、男女平等指数が比較的に高いのにもかかわらず幸福度が低い国は、東ヨーロッパのみである。共産主義という名目のもとでは、男女ともに労働にいそしむという風潮があったからかもしれない。しかし東ヨーロッパでは同姓結婚がまったく認められていないように、個人にとっての寛容さはまだ低いといえる。したがって男女平等指数が高いことに加えて、同姓結婚が認められているという両方の条件を満たしていることが、寛容度の高さを表すことになる。

日本の男女平等指数は、134国中101位である。これは最下位を独占しているイスラム教国を若干上回る程度であり、アフリカのジンバブエ、マラウィ、タンザニア、バングラデシュ等の世界最貧国よりも低い指数である。

日本の男女指数の内訳を見てみると
① 経済参加と機会 108位
② 教育の格差     84位
③ 健康と生存     41位
④ 政治力       110位

となっている。つまり健康と生存以外は惨憺たる結果である。また、経済参加と機会において同一労働での男女給与格差が99位、男女収入格差では100位、女性の労働参加では83位、女性管理職の数では109位、専門職での女性の数は77位であった。しかし教育の格差での識字率、小中学校での男女格差はゼロなので世界1位だったが、大学では男62に対して女54、つまり女性の比率が男性の0.87であり、これは98位だった。健康と生存では、平均寿命が世界1位であったが、出生時の男女比では89位だった。政治力では、女性国会議員数が105位、女性の大臣職では85位であり、過去50年で女性の国家元首の数はゼロである。ただしこの順位は41位であり、世界のほとんどの国では女性の国家元首は誕生していない。

男女の格差において、賃金格差などの労働条件を平等にするためには、法律によって厳格に定めることが最低条件として必要であろう。しかし法律をつくる国会議員の大多数が男で占められていれば、女性にとって不利な社会が継続されてしまう可能性が高い。そこで女性の国会議員の数は、社会での男女平等の象徴的な役割を表すともいえるかもしれない。

日本の国会議員で女性の占める割合は、2009年の衆議院選挙の結果で若干増えはしたが、それでも全体の11.3%である。国際組織である列国議会同盟の調査によると、この割合は世界147ヶ国中96位であり、先進国では断トツに最下位である。

また日本と社会構造が似ている韓国は、男女平等指数が115位であり、内訳は①113位、②109位、③80位、④104位となっている。内容としては、健康と生存が若干高いが残りは低迷しているという、日本と同じ傾向を示している。韓国の女性国会議員の比率も13.7%(87位)と、日本と非常に近い値である。

ちなみに女性国会議員の比率が世界でいちばん高いのは、アフリカのルワンダ(56.3%)、スウェーデン(46.4%)、南アフリカ(44.5%)、キューバ(43.2%)アイスランド(42.9%)である。

特筆すべきは、ネパールの33.2%、アフガニスタンの27.3%、イラクの25.5%、パキスタンの22.2%、中国の21.3%と、いずれの国も大きく日本を引き離している。パキスタンは日本の2倍、アフガニスタンでは3倍に近いということである。また男女平等指数で9位となったフィリピンはアジアで最貧国のひとつだが、幸福度は日本よりも平均的に若干高い。これは女性国会議員の比率が21%と、日本よりも圧倒的に多いこととは無関係ではないだろう。

ただし、日本社会での男女格差を判定する場合、統計上には出にくい部分を考慮しなければならない点もある。

確かに女性国会議員の数や、賃金格差などの統計的に表れる数値が重要なのは間違いない。しかし総合順位が、敬虔なイスラム諸国とあまり変わらないというのは、驚くべき事実でもある。イスラム教国では、いまだに女性の参政権が与えられてない国も多く、またサウジアラビアでは女性が車や自転車を運転することも禁止されている。さらに多くのイスラム教国では、女性は夫と親族以外に顔を見せることが禁止されているなど、女性の行動が厳しく制限されている。そして何よりも、イスラム教では一夫多妻制が認められている。そういった極端な男女格差のあるイスラム社会と日本が大差ないという結果なのだから、日本の男女格差は深刻な問題なのかもしれない。

ところが日本の多くの家庭では、毎月の給料を全額妻に渡し、夫はそこからお小遣いをもらうという習慣がある。これは実質的に女性が家庭での権力を持っていることと等しいかもしれない。ちなみにこのような習慣は、日本以外では存在しない。また家庭内での消費の決定権はほとんど妻が握っていることが多く、こういった日本女性の隠された権力は統計に出てこない。

しかしながら、女性が家庭内の消費の決定権を握っているという事実は、日本にかぎらず欧米その他、世界中の社会でも見られる傾向でもある。またイスラム教国であるパキスタン、イランは、男女平等指数がそれぞれ134ヶ国中132位と128位と最下層であるが、私がそれぞれの国で数ヶ月滞在する中で、現地で出会った女性たちは、意外にもそれほど不自由さを訴えていなかった。そのような統計から見えない現実を充分に考慮しても、10%程度しか女性の国会議員がいないという日本の現実は、かなり特異な状態といえる。民主主義社会において、法律をつくる役割を担う国会議員が、国民の約50%を占める女性の1割しかいないということは、法律が男性優位につくられてしまう懸念があるだろう。

もっともこれが兵士などの、男女での圧倒的な肉体的差が出てくる職業であれば話は別であるし、また必ずしも、女性議員がきっちりと50%になる必要はないかもしれない。しかしながら、国民を代表する立場の国会議員のうち、女性がほんの一割しか代弁できないようでは、女性にとってフェアな社会をつくることは難しいだろう。そして女性に平等な社会でなければ、個人や少数派に寛容であろうとする姿勢も希薄となることは、これまでのデータで明らかになっている。


なぜ日本では、男女平等が進まないのか


ワールド・バリュー・サーベイの調査で、次のような質問がある。
「仕事が少ない場合、男性のほうが女性より先に仕事につけるようにすべきだ」という項目に対して、同意できるかどうかを尋ねたものである。

これは、男女の労働する機会をどのように考えているかを見ることができる。日本は27.1%が「同意できる」と答え、17.9%が「同意できない」と回答した。残りの55%は「どちらでもない」と答えた。この結果から、ちょっと複雑な、日本独特の事情が見えてきた。

まず27.1%の「同意できる」という回答だが、これは56国中29位の多さであり、上位はイスラム教国が独占している。エジプトは89.1%、ヨルダンは88.2%、イラクは83.9%の人が、男性を優先することに「同意できる」と答えている。イスラム教国につづいて多いのはアジア各国で、インド、台湾、中国、ベトナムが、それぞれ51.4%、43.6%、42.3%、40.8%である。そして少ない国では、スウェーデンの2.1%、ノルウェーの6.5%、アメリカ合衆国の6.8%と、欧米諸国が独占している。

「同意できない」と回答した割合については、17.9%の日本は下から6番目であり、下位を占めるイスラム教国と肩を並べている。エジプトが4.3%、ヨルダンが7.9%、マレーシアが15.2%、イラクが16.1%である。そして欧米諸国は、約75%から90%以上が「同意できない」と答えている。

しかしここで注目すべきなのは、「どちらでもない」と答えた割合である。日本の55%は世界でも断トツに多く、その次は韓国の37.1%、マレーシアの35.7%、香港の34.3%と、アジア各国が独占している。

以上の結果から、わかることをまとめてみよう。

日本の職場で、男女の雇用差別をあからさまにやろうとは思う人は3割未満だが、大多数の人は、たとえ雇用差別があっても反対しようとは思わない。また積極的に男女差別に反対する人は、2割にも満たない。そして半分以上の人は、男女の雇用機会ということについて考えたことがないのか、もしくは意見を持っていない、つまり「わからない」ということだ。そこで、過去からつづけてきた男尊女卑をそのまま継続しているのである。これは、現在の日本社会を象徴している結果ともいえるのではないだろうか。

つまり日本には、極端に不寛容な人がそれほど多いわけではない。ここはイスラム教国とは大きく違う。イスラム教国では、8割以上が男女差別を当然と考えているからだ。しかし日本では、大部分の人が問題意識を持っていないために、男女差別があっても見過ごしているのである。つまり、男女差別に積極的に同意はしないが、消極的には同意していることになる。これは「長いものに巻かれろ」や「ことなかれ主義」といった集団主義の、非常に悪い側面ともいえるだろう。

社会を改革するには、自分の意見を積極的に主張することが絶対に不可欠である。たとえそれが「間違っているのではないか」という意識があったとしても、何も言わず、何も行動をしないのでは、昔からのやり方を肯定することになってしまう。別のいいかたをすると、日本人はフェアではないと何となく理解をしていても、みんながそれをつづけていれば、「長いものに巻かれろ」の精神で従ってしまうということだ。正しくないと心の底では思っていながらも、何もせずに傍観するのは、不正に荷担していることとあまり変わらない。したがって、イスラム教国のように政策として男尊女卑を推奨している国とは構造がまったく違うが、結果として、日本の男女平等指数がイスラム教国と肩を並べて、世界最低ランクに属することになっている。


なぜ日本人は、寛容度が低いのか


男女格差や同性結婚は国家の寛容さについての大きな指標になるが、その他にも寛容さを象徴することがいくつかある。

たとえば日本では、未婚の親から生まれた子供の権利や、在日外国人などのマイノリティーに対する寛容性は、欧州に比べてまだまだ低い。また近年議題とされている「夫婦別性」の件も同じだ。

「夫婦別性にすると家庭が崩壊する」と主張している人々がいるが、本当の論点にするべきことは、別性にしたい人、つまり、社会での少数派に対して、その選択肢を与えるかどうかということである。選択制なので、国民すべての夫婦が別性にしなければいけないという話ではない。つまりこれは、「違う生活スタイルを求める人に、どれだけ寛容になれるか」という、社会の寛容さが問われている。それに対して反対の立場をとる人たちは、「別性を名乗る夫婦は夫婦と認めない」という、個人の選択に不寛容な立場なのである。これは、個人の自由よりも集団に同化することが優先されるべきだという心情が背景にあると考えられる。

それでは、日本はなぜ個人に寛容ではないのだろうか。これは、日本の集団主義的思考に共通していると考えられる。社会心理学者H.C.トリアンディスは、著書『個人主義と集団主義』で、寛容性の高い個人主義社会と、厳格な集団主義社会との違いを、次のように説明している。

たとえば、寛容性の高いヨーロッパの国では、どのような状況であっても、人は他と異なる行動をとる自由が許される。もしもその行動がうまくいかなければ、別の方法を試せばいい。そして最終的にうまくいけば、社会はその行動を賞賛する。仮に10のうち8の失敗を重ねても、ふたつの成功を成し遂げたことが重要であり、裏を返せば、寛容性の高い社会では、8の失敗をする自由が認められているのである。

その一方で、日本のような比較的に寛容性の低い社会では、どのような状況であっても、人はひとつかふたつ程度の「常識的な」もしくは「正しい」ことをしなければならない。そして失敗をすると、間違いなく非難の対象となる。そこで人は、なるべく間違いを犯さないように、他人と同じ行動をとる傾向となってくる。これは言いかえると、寛容な社会が肯定的な結果に着目するのに対して、厳格な集団主義社会が、常に否定的な結果に着目するということである。したがって集団主義では、協調性という名目のもとに、みんなが同じ行動をとることを強要され、異質な者への寛容さは自動的に最小限にとどまってしまう。

日本において多くの少数派が、大多数と同じ市民権を得ていないことはすでに述べた。ただし女性は、厳密にいうと少数派ではない。しかし「女性」という続柄によって平等な扱いをされない社会は、寛容な社会とは正反対に位置する。そして寛容性の低い社会は、集団主義の傾向が非常に高い。

日本よりもさらに寛容度の低いイスラム教国については、特に注目すべき点がある。イスラムの教えに忠実な人生を歩むことは、イスラム教という集団に対して個を放棄することでもある。実際に「イスラム」とは、「神への服従」という意味であるからだ。そしてイスラム教の教典である『コーラン』の冒頭は、「この本を疑ってはならない」で始まっている。こうした批判的精神を受け入れない態度は、厳格で硬直的な集団主義の典型でもある。またイスラムの教えに背く者への非寛容性からも、個人の寛容や自由とは正反対の傾向が顕著になっている。英国の歴史学者ロバート・レーシーは著書『Inside the Kingdom』で、イスラム教国について次のように記している。

「もしも、ある国が『コーラン』を憲法として採用するならば、すべての戦争は聖戦でなければならず、国のために戦死した者は聖戦士となり、秘密警察が神の仕事を請け負うことになる」
(拙訳)

集団主義的傾向のより強いイスラム教国が、同性愛者を違法とし、男女平等指数の最下位を独占していることは偶然ではない。またそのすぐ後を、日本を始め東アジア諸国が追随していることも、集団主義という観点から見れば、これも一貫性のある結果だと考えることができる。そして過去には、集団主義を究極的な形へつくりあげようとした共産主義があった。その影響を色濃く残している東ヨーロッパは、男女の平等は進んでいるが、その他の個人の寛容性については低い。そしていずれの社会も、経済発展のレベルに比べて軒並みに幸福度が高くないという点で一致しているということも、共通した結果である。

そして西ヨーロッパでは、同姓結婚にかぎらず、社会の少数派のほとんどが市民権を得ている。さらに男女平等指数でも、世界で上位を独占している。こういった事実は、西ヨーロッパが世界で最も幸福度が高い大きな理由のひとつであることは間違いないだろう。

集団主義とは、個人ではなく集団の利益を優先するものである。したがって、集団主義の思想があるかぎり、少数派に寛容な社会は決して成り立たないだろう。そもそも集団主義という発想自体が、価値の多様化を認めていないからである。

日本が個人の幸福度を上げるには、個人にもっと寛容な社会になる必要がある。そして個人に寛容な社会をつくるためには、集団主義という呪縛から逃れることが、最低限として必要な条件であろう。



2010年8月18日水曜日

幸福度について: ⑥経済と幸福度

1950年代、各種のメディアは未来の社会をこう予測していた。

「現在のような生産性の向上が将来もつづくならば、2000年には平均労働時間が週16時間になるだろう。人々は余暇を過ごす時間が大幅に増え、生活の質は大幅に向上するであろう」

ちなみに週16時間とは、週休2日で1日3時間程度の労働である。

2000年になり、当時の予想はまったく的外れであったことが証明された。現在先進各国の平均労働時間は週40~45時間程度であり、労働者保護の精神が強いフランスでも週35時間労働である。予想どおりに生産性は飛躍的に向上したが、同時に人々はより熱心に働くようになった。

幸福度について、衝撃的な調査結果がある。ワールド・データベース・オブ・ハピネスによると、日本人の幸福度は、調査が始まった1958年以来ほとんど変化していない。つまり1980年代後半のバブル経済絶頂期の日本人が世界を買いあさっていた時代、株価や地価の高騰で多くの人々の資産価値が上昇し家計の収入も増え消費も拡大し、失業率も2%前後と非常に低く、貧富の格差も世界で2番目に小さかった、そんな時代でも、日本人の幸福度は現在と変わらなかったのである。

もちろん、近年の大きな社会問題となっている年金や格差のことなど、当時は話題にもあがっていない。ちなみに1958年から日本のひとり当たりGDP(国内総生産)は、約6倍になっている。しかし幸福度は、ここ50年以上も頭打ちなのである。この事実は、この先いくら経済発展をしても、日本人の幸福度が変わらないことを示唆している。

アメリカでも1947年から2006年まで所得が7倍に伸びたのに幸福度は、ほぼ横ばいである。ヨーロッパでは1973年の調査以来、所得が約2.5倍に増えたのに対して、幸福度はベルギーとポルトガルが下降しているが、平均では若干上昇している程度である。

ポーランドの社会学者ジグモンド・バウマンは、物質的な豊かさと幸福の関係について、一定水準を超えるとGDPと幸福度の間に関係が見られなくなると述べている。

実際に世界全体を見ると、年間所得が1万ドル(約100万円)程度のレベルに達するまでは、所得の上昇と幸福度の上昇が相関している。しかしそれを超えると、所得の伸びと幸福度はほぼ無関係となっている。

発展途上国にとって経済発展は、国民の富を増やすだけでなく幸福度も増やすのだから、国家の最重要課題となることは理にかなっている。しかし先進国にとって、経済の繁栄が直接に幸福度の上昇へと結びつかない。

ただし、失業率に関しては無視できない事実がある。失業をすることは、一般的に個人の幸福度を下げる。

社会福祉の充実しているヨーロッパでも、長期の失業率が高いポルトガル、ギリシャ、フランス、イタリアは、幸福度が他のヨーロッパ諸国と比べて低い傾向がある。これらの国々は、ギリシャを除くとカトリック教徒が大多数をしめるラテン国家である。

その一方で、同じカトリック教徒が大部分をしめる中南米のラテンアメリカでは、ほとんどの出業率が10%前後と高く、経済的にも平均所得が1万ドルに満たない国がほとんどであるのにもかかわらず、幸福度は比較的に高い。ラテンアメリカだけは、例外のようである。

コロンビアやブラジルの失業率はそれぞれ12%と8%であり、年間平均所得は共に1万ドルに満たない。しかし幸福度においては、コロンビアはワールド・バリュー・サーベイでは97国中3位、ワールド・データベース・オブ・ハピネスでは、145国中4位、レスター大学の調査では、178国中32位である。またブラジルの幸福度は、ワールド・バリュー・サーベイで97国中29位、ワールド・データベース・オブ・ハピネスでは145国中16位、レスター大学の調査では、178国中81位となっている。

つまりコロンビアやブラジルは失業率が高く、所得もそれほど高くないが、幸福度は日本よりも断然高く、世界的に見ても上位に位置している。

同じレベルの年間平均所得であるコスタリカの幸福度はワールド・バリュー・サーベイで145国中15位、レスター大学の調査では178国中16位と欧米諸国と肩を並べているが、失業率は5.6%と比較的低い。そこで、ブラジルやコロンビアの失業率が現在よりも低下すれば、幸福度がさらに上昇するのかもしれない。

長年景気後退している日本の失業率は、2010年7月現在で5.3%である。これは、世界的に見ても低いレベルにある。したがって、日本の幸福度が低い理由は、失業率の問題ではない。前述したが、バブル期の失業率は2%を切っていたのにもかかわらず、日本の幸福度は現在と変わっていないからだ。

日本よりも高失業率で貧しい国よりも、日本の幸福度は低い。そこで日本の失業率が悪化すれば、さらに日本人の幸福度が下がる可能性はある。しかし失業率を低く保つために経済発展しつづけるだけでは、今後も日本人の幸福度が上がらない可能性は非常に高いということだ。

では、どうすれば日本の幸福度が上がるのか。
それは、次の投稿からいろいろと検討していきたい。

2010年8月13日金曜日

幸福度について: ⑤地方分権と幸福度

幸福度で常に世界の上位にいる永世中立国スイスの、国内における幸福度調査をみると、非常に興味深い結果がでてきた。

スイスの経済学者ブルーノ・S・フライとアロイス・スタッツァーによると、各カントン(州)の独立性が高ければ高いほど、つまり地方自治の度合いが高いカントンほど、住民の幸福度が高いことがわかった。連邦制を採用しているスイスでは、連邦議会より独立して各カントンが決定できる範囲に違いがあるからだ。

これは、住民自らの意見が自分のコミュニティーに直接反映されている度合いが高まるほど、個人の幸福度も高くなるともいえる。

地方自治の度合いが高いことは、選挙での一票の重要さが高くなる。それは、必然的に住民の政治意識を高めるだろう。住民が地域の政治に積極的に参加し、地元を自分たちでつくりあげているという意識が高まれば、コミュニティーでの連帯意識も高まる。たとえ何か悪い状況が発生しても、自分たちで解決手段を探していくので、最終的には住民の納得する地域をつくりあげることができるのだろう。

人口750万人のスイスでは、15,000人程度のカントン(州)から、最大124万人(チューリッヒ州)のカントンまで、比較的小規模の26の自治体がスイスという連邦国家をつくっている。公用語はドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4ヶ国語であり、各カントンには独自の議会、憲法、そして裁判所が設置され、国民が直接国政に対して投票する直接民主制を採用している。

日本でたとえると、愛知県の人口が740万人なので、愛知県が独立してさらに連邦制の政府をつくり、それを26の州に分け、それぞれの州に独自の憲法や税金制度をつくらせる、といった感じである。

スイスでは、公用語である4ヶ国各言語の地域によって、生活にも違った特色が見られる。首都ベルンや最大都市のチューリッヒを持つドイツ語圏は、人口の64%を占めており、実質上のスイスを象徴する大きな役割を担っている。

そして国際都市ジュネーブのあるフランス語圏は人口の19%、イタリア語圏は8%、ロマンシュ語圏は0.5%となっている。フランス語圏やイタリア語圏に住む人たちにとって、テレビや雑誌などのメディアはフランスやイタリアのものしか存在しない。あるのは地方新聞ぐらいである。そこで、たとえばジュネーブに住むスイス人は、フランスのニュースやドラマ、そして映画などを見て育つことになる。

そういった言語の違いは、同じスイス人でも多少の文化的な違いが出てくる。しかしながら、前述したフライとスタッツアーの調査では、異なった言語圏と、幸福度との相関関係は特に見られなかった。

しかしもうひとつ、興味深い結果が出てきた。各カントンに住む外国人の幸福度だ。

スイス国籍を持たない外国人居住者と一時労働者は、スイスの人口の22%にのぼる。そして外国人の幸福度は、スイス人と比べて低いという結果が出た。特筆すべき点は、どこのカントンでも、外国人の幸福度が一貫して低いことである。

北欧諸国や一部のヨーロッパ諸国と違い、スイスでは外国人に地方参政権がない。そこで彼らにとって、地方自治の度合いが高かろうが、まったく関係がない。したがって、地域のコミュニティーに対する帰属意識も希薄であると考えられる。


さて、地方分権が高い幸福度に貢献することは、個人の人生にも共通するのだろうか。つまり、個人でも自立すると、幸福度はあがるのだろうか。

離婚をする前と後で、日本の女性の幸福度がどう変化するかを調べたものがある。公益財団法人の家計経済研究所によると、離婚後の女性ひとり当たりの所得は、年収ベースで平均252万円から165万円と、平均で36.5%減少していた。

これだけ所得が下がるのであるから、離婚後の生活満足度も下がるかと予想する人も多かもしれない。しかし現実は、逆の結果が出ている。離婚後の幸福度は、22%も上昇していた。

たとえ所得が減っても、自分で自由に使えるお金と時間が増えたために、幸福度が増えたのである。この結果は、お金と自由を比べた時、自由を与えられたほうが人は幸せになるという象徴的な例なのかもしれない。

また別の統計で、自主性と幸福度との相関関係は、所得と幸福度との相関よりも20倍あるという結果も出ている。社会的地位や所得に関係なく、自分で自分の生活の管理ができる機会がある人のほうが、生活満足度が高いということである。

これらの事実は、スイスでの地方分権の話と一致している。たとえ結果がうまくいかなくても、自分で選択した結果なのであれば、本人は納得できるだろう。個人が好きなことを追求すれば、どんな職業についても、(その職業が好きだという前提で)自分の職業を誇りに思うことができるはずである。

その反対として、自分の人生が他人や社会の意向に従おうと常に思いながら生きる場合、何かうまくいかないと、他人や社会を責める誘惑に駆られるだろう。そうやって責任転嫁することは、社会に対しても、また自分に対しても、欲求不満の原因となってくる。


最近では日本でも、道州制への移行や、地方分権という議論は積極的にされ始めている。さて、日本でも地方分権をすすめることで、幸福度をあげることができるのだろうか。

そもそも日本では、個人主義としての「個」というものが、国民ひとりひとりに確立されていない。そして多くの地方は、いろいろな意味で国への依存体質が根強く残っている。

そこでまず、個人のレベルから集団への依存体質を改善しないかぎり、制度として先に地方を分権したところで、スムーズに事は運ばないだろう。地方分権を導入し、後に地方が疲弊した場合はどうなるか。集団への依存体質が抜けない人々は、おそらく地方分権を実行した国の責任だと主張するだろう。

最初から自立する意志のない人々を無理やりに自立させるように切り捨てても、不満がつのるだけで、建設的な解決にはならない。つまり個々の住民が、個人として自立した姿勢を持ち、地域が自立するという意識が広く浸透しなければ、地方分権はうまく機能しないだろう。

そして地方分権の結果として、地域によって大きな格差が生まれることは、容易に予想がつく。ただし、地方によって差がでることは、必ずしも悪くはないだろう。差があるならば、そこから各地方独自の生き方を模索することによって、地域の個性化につながるからだ。もちろん、そこには努力が必要だが。

しかし地元住民が参加して努力することで地域への愛着も生まれ、またコミュニティー意識も高まってくるだろう。たとえ経済格差が生まれても、結果として幸福度が上がれば問題ないだろう。ただし、国は最低限の保証としてのセイフティーネットはつくるべきだろう。

画一的な経済発展ではなく、地域の住民がいかに自分たちの満足できる地域をつくれるかを模索することこそが大切なのではないだろうか。

2010年8月9日月曜日

幸福度について: ④宗教と幸福度

宗教は、人を幸福にするのだろうか。

心理学者マーティン・セリグマン教授によると、個人にたずねた場合、宗教を信仰している人のほうが、信仰心のない人よりも幸福度が高いという。しかしながら、この結果をそのまま社会の幸福度に当てはめることはできない。国の幸福度と信仰心の関係を見ると、もうすこし複雑な結果が出ている。

敬虔なカトリック教徒を多く抱えるラテンアメリカ諸国の幸福度は比較的に高い。それは同程度の経済発展の国と比べても、ずば抜けて高い幸福度を示している。ラテンアメリカの事情については、また別の機会に詳しく考察したいので、ここでは触り程度にしておくが、高い信仰心がラテンアメリカの高い幸福度に何らかの貢献をしていることは間違いないだろう。

しかしながら、多くの敬虔なカトリック信者を抱えるポーランドの幸福度は、他の東ヨーロッパの例にもれず、低い幸福度を示しているという事実もある。つまり、信仰心よりも社会体制が幸福度に与える影響が強いということだろう。

そして敬虔なイスラム教徒を抱える国々では、どの国でもあまり幸福度が高くない。その中でも特に注目したいのが、中東の資源国である。レスター大学の幸福度調査(178国)では、カタールは48位、クウェートは37位、サウジアラビアは28位、UAE(アラブ首長国連邦)は19位であった。そしてワールド・データベース・オブ・ハピネス(146国)では、カタールが37位、クウェートは45位、サウジアラビアは50位、UAE(アラブ首長国連邦)は21位だった。

2009年のひとりあたりGDP(購買力平価でベース)を見てみると、カタールは約750万円と、断トツで世界一の金持ち国家である。これはスイスやアメリカの約2倍、そして日本の約2.5倍の額である。カタールは世界最大の液化天然ガス生産・輸出国であり、サウジアラビアは世界一の原油埋蔵量がある。こういった中東の資源国では、非常に手厚い社会保障が完備されている。たとえば病院や学校がすべて無料であるばかりか、最近では住宅までも無料で支給している国さえある。そこで幸福度もある程度の上位に位置してはいるのだが、北西ヨーロッパのレベルには遠く及んでいない。

ここで、少し想像してもらいたい。世界一のお金持ち国家であるだけでなく、たとえ働かなくても、衣・食・住には一切不自由しない国だ。もちろん働いてもいいし、いずれにせよ将来の心配はまったく必要ない。そんな国ならば、世界一の幸福な国家であっても不思議ではないだろう。しかしそれをすべて実現しているカタールでは、幸福度がそれほど高くない。これは衝撃的な事実でもあるといえる。少なくともカタールでは、強い信仰心が人々を幸福にしているという傾向は見られない。かえって厳格なイスラムの戒律が人々の自由を奪うことで、幸福度が低くなっているのではないかと考えることもできる。

アメリカに本部をおくNGOフリーダムハウスは、世界192ヶ国の「政治的自由」と「市民的自由」というふたつの指標から「世界の自由度」を発表している。政治的自由度とは、どれだけ自由に政治的活動ができるかであり、市民的自由度とは、表現や信仰などの個人の自由を基準にしている。それぞれが1から7までの数字で表され、「1(政治的自由)-1(市民的自由)」が最も自由度が高いことを示す。

カタールの政治的自由度は6、市民的自由度は5と、世界でも最低レベルの自由度である。そしてクウェート、UAE、サウジアラビアと、いずれの国も政治的・市民的自由度は、世界最低レベルである。イスラム教は、宗教として必ずしも不寛容な宗教とは言い切れないかもしれない。イスラム教徒の教典であるコーランの解釈によって、イスラムの教えも変わってくるからだ。しかし実際にイスラム教によって統治されている国は、ほとんどすべてが政治的および市民的自由度について世界最低を示しているという事実がある。

では、資源のないイスラム教国はどうだろう。アフガニスタン、バングラデシュ、パキスタン、イエメン、エジプトと、いずれも敬虔なイスラム教徒であり、すべてが発展途上国である。そして幸福度については、アフリカ諸国と並んで世界最下位のグループに所属する国がほとんどである。

ちなみにアフリカ諸国の多くはキリスト教徒かイスラム教徒であるが、いずれも幸福度は世界最低のレベルである。この事実は、ひとりあたりのGDPが100万円以下のコロンビアやグアテマラをはじめとするラテンアメリカが、非常に高い幸福度を示していることとは対照的である。

国家という大きな母集団となると、個人の宗教心よりもその国の政治体制や文化という国の仕組みがより大きな影響を与えていることになる。特に政治的、そして市民的な自由度については、幸福度とは逆相関の関係を示している。したがって「宗教を普及すれば、国民が幸福になる」ということは決して起きていない。それは多くの宗教が、個人の自由を制限する傾向があるからでもある。世界で常に上位を独占している北西ヨーロッパの国々では、非常に信仰心が低いという事実も付け加えておこう。


宗教とは基本的に、科学的な立証がまだ及んでいない領域の答えを明確に与えてくれる。たとえば宇宙の起源について、約137億年前にビッグバンといわれる爆発から始まったとされる「ビッグバン理論」が主流であり、それを立証する観測結果も出ている。しかしそれ以前のことは、現在の科学でもほとんどわかっていない。

そこで多くの宗教は「神」という言葉を使うことで、その分からない部分を埋めてくれる。最近では、「神」の代わりに「インテリジェント・デザイン」とよんでいる団体もあるが、実質的には「神」と同じである。実際のところは、「エックス」という謎を「神」という魔法の言葉で置き換えているだけである。つまり、この世の中でわからないことがあれば、それをすべて「神」という便利な言葉を使えば、安易に結論付けることができるのである。

しかしながら、人類の科学が発展してきた理由は、そういった謎を謎で終わらせることなく、容易に「神」として結論付けるのでもなく、「なぜなのか?」と疑問を抱くことから始まっている。つまり現在まだ解明されていない謎があるからこそ、それを解明しようとするのが科学なのであり、現在解明できないことは科学の限界ではない。そこで安易に答えを提供してしまう宗教は、「なぜ」という疑問を止めてしまうことにもつながってくる。

疑問を持たないということは、思考が停止することと同じである。つまり宗教とは、最終的に思考を停止させてしまう役割を持っている。

こうした役割を持つ「神」の存在は、権力者にとって非常に便利であろう。だからこそ、古今東西、政治的道具として宗教が利用されてきた。そして個人にとっても、安易に明確な答えを与えてくれるという意味で、思考の怠慢という事実にもなる。

発展途上国において、充分な教育を国民全体へ普及することが困難な場合、宗教が人々の心を癒やし、道徳観を高めることで秩序のある社会をつくることはできるかもしれない。しかし経済的に豊かになり、教育レベルが上昇してくると、「なぜ」という疑問を追求する姿勢を殺してしまう宗教は、不寛容等の社会的軋轢(あつれき)の原因となっていくという側面を持っている。

ただし、それぞれの国によって事情が異なるため、宗教がどのように国家に関わっていくべきかという明確な基準を設けることは無意味である。しかしながら、非宗教的で合理的な北西ヨーロッパが、どの調査結果を見ても世界でいちばん幸福な国家であるという事実は、念頭におく必要があるだろう。

2010年8月5日木曜日

幸福度について: ③自殺と幸福度


自殺や自殺未遂をする人は、不幸な可能性が非常に高いだろう。自殺者や自殺未遂者のほとんどが、うつ病であるという説もある。そこで直感的に、自殺率と幸福度には相関関係があると感じるかもしれない。しかし実際に統計結果を比べてみると、自殺率と幸福度には相関が見られる地域と、まったくそうでない地域があり、より複雑な関係となっている。

自殺者が世界でいちばん多い国は、リトアニア、ベラルーシ、ロシアといった東ヨーロッパ諸国であり、10万人中それぞれ38.6人、35.1人、32.2人と、他国を大きく上回っている。10万人中15人以上の自殺者がいる国は世界で26ヶ国あるが、東ヨーロッパ諸国が半分の13ヶ国を占めている。その他で自殺率が高い国は、カザフスタン(25.9人)、日本(23.7人)、ガイアナ(22.9人)、韓国(21.9人)、ベルギー(21.1人)、フィンランド(20.1人)、フランス(17.6人)である。

自殺率の高い国は、ほとんどが旧共産主義諸国と東アジアだ。両者に共通する点をひとつあげると、「権威主義」もしくは「集団主義」だろう。共産主義国家とは、もともと集団主義を究極的な形にしようとした思想である。マルクスが理想としていた国家像と、実際に旧共産主義圏の政治体制には多くの部分で違いはある。しかし現実として、旧共産主義諸国では政府が個人の細かい行動まで制約していた。別のいいかたをすると、個人の自由が極力制限される社会である。そこで現在は民主化された東ヨーロッパの国々でも、当時の権威的な風潮が残っていると考えられる。

実際に私が東ヨーロッパ諸国を訪問したときも、非常に官僚的な雰囲気を肌で感じた。そして日本や韓国という集団主義的な社会も、規則や暗黙のルールが常に強調され、必然的に個人の多くの行動をしばっている。そこで個人主義の欧米諸国とくらべると、個人の自由度は非常に少ない。
しかしながら、個人への自由度が低いと自殺率が高いのかというと、必ずしもそうではない。世界でも非常に抑圧的で寛容性の低いイスラム教国では、少なくとも統計上では自殺がほとんど存在しない。それは、自殺が宗教の影響を強く受けることを示唆している。

イスラム教やキリスト教では、自殺は禁止されている。自殺者は地獄に堕ちると教えられているだけでなく、自殺が犯罪とされている国もある。そこで人々の生活に宗教の影響が非常に強いイスラム教圏では、イラン、シリアのように自殺者の数が100万人に1人か2人と極端に少なく、またエジプトやヨルダンのように、統計上は自殺者がゼロの国もある。またキリスト教でも、より戒律の厳しいカトリックのほうが、プロテスタントよりも自殺率が少ない。特に敬虔なカトリック教徒が多いラテンアメリカでは、ハイチやホンジュラスのように自殺者がゼロの国から、コロンビア、ブラジル、メキシコ、ベネズエラといった国々は、10万人中5人前後である。これは、日本のわずか4分の1である。

日本では、自殺することで道義的責任を果たすという風潮がいまだに根強く残っている。これは武士の時代から、切腹することで名誉を保つという習慣から受け継がれてきたからだろう。昭和に入って起こった第二次世界大戦中でも、日本軍兵士や民間人は、捕虜になるよりも自決することを選んだ人々までいる。また近年の経済不況によって、自殺率は10万人中23.7人と高くなってきているが、バブル期の80年代でも、10万人中20人前後と、比較的高いことに変わりはない。それは、経済的理由で自殺するというケースだけではないことを物語っている。


たとえば日本では、倒産した会社の社長が、責任をとる形で自殺するというケースがある。また、凶悪犯罪の加害者の家族が自殺に追い込まれるといったケースもある。そして、逮捕された政治家の秘書が自殺をするというケースもある。これらはすべて、責任を「死んでお詫(わ)びする」といった、日本の社会的風潮だ。そして多くの場合、非難される「責任」とは、家族や同じ集団といった個人以外の「連帯責任」という考えが見られる。法律では責任を問われないが、犯罪加害者の家族が非難されるといった社会のプレッシャーによって、道義的な連帯責任を追及される。こういった考え方は、個人は独立した人格ではなく、あくまで集団の一部としての存在であり、個人の命よりも集団全体の利益を優先させるという発想が根底にあるからだろう。もちろん多くの自殺者は、もっと個人的な絶望感から自殺をするのかもしれない。しかし日本の自殺者数が、他の先進諸国と比べて多いということは、多くの自殺者は、集団主義の犠牲者ともいえるのかもしれない。

さて、それでは貧困と自殺には何らかの関係があるのだろうか。世界で最も貧しい国々を抱えるアフリカでは、残念ながら、いまのところ自殺率のデータが存在しない。そこで最貧国での自殺の実態はわからない。しかしながら、自殺率の高い国には発展途上国がほとんど見あたらない。10万人あたりの自殺者が10人を超える国は世界に47ヶ国あるが、その内ひとり当たりGDPが100万円を下回る国は、わずか6ヶ国しかない。つまり、自殺の多い国の圧倒的大多数は、ひとりあたりGDPが100万円以上ということになる。さらに、自殺の統計がある最貧国を見てみると、ハイチやタジキスタンでは自殺率がほぼゼロである。そこで、貧困と自殺には相関が見られないと推測できる。そして、世界で最も不幸なアフリカ諸国と自殺率との相関関係も見られないだろう。

そもそも人類がこれまで生き残ってきた理由は、どのような逆境でも生き残ろうとする強い意志があったからである。したがって、たとえ餓死することはあっても、餓死しそうだから自殺をするというケースはあまりないのかもしれない。自殺はむしろ、未来に対する絶望からくる。衣食住という生き残るための最低条件を満たされてしまった後は、生きるための目標を失う人が出てくるのだろう。そういう意味では、自殺はうつ病と同じように現代的な現象なのかもしれない。

最後にまとめをしてみよう。自殺率の高い国は、幸福度が低いだけでなく、個人に対しての寛容度も低い。ただし自殺率の低い国は、必ずしも幸福度が高くない。自殺率が低く、幸福度の低い国は、戒律の厳しい宗教によって自殺が禁じられている社会であり、個人への寛容度も低い国である。ただし、ラテンアメリカのように信仰心が強く自殺率が低いが、個人への寛容度は比較的高く、幸福度も非常に高い国もある。

自殺率と幸福度には、複雑な関係が潜んでいる。しかし、ひとつだけ言えることがある。自殺率が低くても幸福な国とは限らないが、自殺率が高い国に、幸福な国はないということだ。そして日本の自殺率は先進国で一番多いということを、もういちど最後に付け加えておこう。