2010年12月28日火曜日

メディアを信頼してますか?

新聞や雑誌、そしてテレビを、あなたはどの程度信頼しているだろうか。

ワールド・バリュー・サーベイでは、実際に上記の質問を世界各国のひとびとにたずねている。そして日本の結果は、以下であった。

新聞や雑誌を信頼しますか
1: 非常に信頼する      7.6% 
2: やや信頼する      67.0%
3: あまり信頼しない     23.4%
4: まったく信頼しない     2.0%

テレビを信頼しますか
1: 非常に信頼する      8.5% 
2: やや信頼する      61.1%
3: あまり信頼しない     28.1%
4: まったく信頼しない     2.4%

結果をまとめると、新聞や雑誌を「非常に」または「やや」信頼している日本人は74.6%、「やや」もしくは「まったく」信頼していないのは25.4%である。また、テレビを「非常に」もしくは「やや」信頼している日本人は69.6%であり、「あまり」もしくは「まったく」信頼していないのは30.4%である。

この結果は他の先進諸国と比べて、メディアを信頼している割合が圧倒的に高い

日本と同様にメディアを高く信頼している国は、韓国、香港、中国、ベトナムなどのアジア各国と、ヨルダンやエジプトのイスラム教国、そしてマリやガーナのアフリカ諸国である。

その一方で、オーストラリアでは88.5%の人が新聞や雑誌を信頼していないと回答し(「あまり信用しない」と「まったく信頼しない」の合計)、テレビを81.8%が信頼していないアメリカでも76.1%が新聞や雑誌を信頼せずテレビ74.7%が信頼していないその他のヨーロッパ諸国でも、少なくとも6割以上の人がメディアを信頼していない

7割前後の人がメディアを信頼している日本とは、非常に対称的な違いである。

あなたの情報源は?

ワールド・バリュー・サーベイでは、メディアについて次の質問も調査している。

「自国や世界のことを知る情報源で、先週利用したものはどれか」

日本の結果は、以下となった。

A: 新聞                  90.1%
B: ラジオやテレビのニュース          97.6%
C: 雑誌                  36.3%
D: ラジオやテレビの報道番組       93.8%
E: 本                   27.3%
F: インターネット、電子メール       45.9%
G: 友人や同僚との会話             69.4%

日本を含めた先進国のほとんどは、新聞もしくはラジオテレビのニュース90%から95%を超えるほどの主な情報源となっている。

それに対して途上国では「新聞」と回答した割合が、ルワンダで9.8%、エチオピアで52.9%と、国によってばらつきがある。これは各国における新聞の普及率と密接に関わっていると推測できる。そしてテレビやラジオでは、一番少ないインドでも61.3%であり、53ヶ国の平均は87.6%と、回答項目の中で最も多い数字となった。

確かに、電気も通っていないアフリカの奥地でも、小型のラジオでニュースを聞く人をたびたび見かけたことがある。乾電池で動くラジオは低価格だけでなく、最も早く情報を入手できる手段として広く浸透しているのだろう。

雑誌や本については、ラジオやテレビに比べると情報伝達のスピードがどうしても劣ってしまう。そこで日常の情報源としては、雑誌や本を活用される度合いが低くなっている国が多い。またインターネットについては、ノルウェースウェーデン、そしてアメリカ合衆国などでは70%前後と、雑誌や本よりも頻繁に使われている国も少なくないが、平均的には雑誌や本と同程度の利用頻度である。これはネット人口が年齢によってばらつきがあることが関係していると推測できる。そこで今後は、さらなるネットの普及や回線の高速化が進むにつれてネット人口が増加し、インターネットで日常の情報を得る割合が多くなることは予測できる。

しかしここで注目すべき項目は、「G:友人や同僚との会話」が、日本では69.4%と比較的に少ない点である。中国では43.8%台湾50.2%韓国71.8%と、東アジアは相対的に少ない。その一方でスイススウェーデンのヨーロッパ諸国では90%を超えている国がほとんどである。

つまりヨーロッパでは、友人や同僚との日常会話の中で、新聞やテレビのニュース内容と同じことが頻繁に話題に上がっているのに対して、日本をはじめとするアジアでは、友人や同僚とあまり社会的な事件を話さないという傾向を示している。

この結果を見るかぎりでは、東アジアでは欧米よりも会話自体の頻度が少ないのか、それとも会話は頻繁に行っているが、ニュースなどの事件や出来事についてあまり話をしないのか、どちらかを判定することができない。

しかし私の個人的な経験からすると、日常会話でいろいろな社会問題を語る機会は、日本と比べて欧米ではとても多い。学生から社会人まで、職業も関係なく、欧米の人々はいろいろな分野にわたって深く掘り下げた対話をよくしている。それはランチの席上であったり、また夕食後に時には数時間にもわたって、たとえば「移民を受け入れるべきか」について、侃々諤々と議論に発展したりすることもある。

真っ向から対立する意見の時には声を荒げることもあるが、それはすべてコミュニケーションの一部であり、意見の対立によって人間関係が悪化することはない。なぜならば、彼らはそういった議論のすすめかたを学生時代から授業なども含めて学んでいるからだ。その延長線上で、友人や同僚とも気軽に政治や社会問題についての意見交換が頻繁になされている。

その一方で、日本では社会問題がふだんの生活で話題にのぼることはきわめて少ない。ましてや友人や同僚と夕食をしている最中に、たとえば「日本でも移民を受け入れるべきか」などと、数時間にわたって真剣に議論したことのある人はほとんどいないだろう。

反対意見を出し合って対話を進めるというコミュニケーションのやり方が、社会全体で否定的なイメージにとられていることが、日本における対話の少なさの大きな原因なのかもしれない

もうひとつ注目すべき項目は、「D:ラジオやテレビの報道番組」の結果である。日本では93.8%の人が報道番組から情報を得ていると回答しているが、これは53ヶ国中で圧倒的に最大の割合である。欧米諸国では60%から80%程度と国によってばらつきがあるが、90%を超えている国は日本しかない。

報道番組と、新聞もしくはラジオテレビのニュースでは、情報源としての決定的な違いがある。ニュースは基本的に事件などの客観的な事実を伝えるだけなのに対して、報道番組はキャスター等が事件に対する主観、つまり制作者の意見が反映されやすい。それは報道番組をつくる過程で、特定の事件を長期的に取材することで、報道する側が事件に対する一定の見解をつくりあげるという性質があるからだ。

もっとも、こういった報道番組によって多種多様な意見が生まれることは、社会にとって必ずしも悪くはないだろう。報道番組のスクープによって、社会が変革することもある。第3の権力といわれるメディアが権力を監視する機能として、報道番組は最適であるかもしれない。そこでむしろ、これは健全な社会の証拠であるといえるかもしれない。

しかしながら、ここで冒頭の調査結果を思い出してもらいたい。日本人の74.6%がテレビを信頼しているという事実である。6割以上の人がメディアを信頼していないと回答している欧米諸国とは、状況が大きく異なっている。

友人や同僚から情報を得るならば、そのときに何らかの意見を交換する機会があるだろう。しかし日本では、友人や同僚が情報源としてあまり大きな役割を果たしていない。そして報道番組から発信される情報は、発信者との意見交換ができない一方通行である。

ましてや、視聴者の7割がメディアを信頼しているのであれば、報道番組の意見をそのまま自分の意見として受け入れてしまう人が大多数に及んでいる可能性が高いことになる。それはメディアの報道次第で、世論がどうにでも動いてしまうという、ある意味、非常に危険な社会ともいえるだろう。

メディアの信用度が高い国が、アジア各国やイスラム教国というのは、決して偶然ではない。




2010年12月20日月曜日

選択の自由がありますか? (2)

日本人は、法律の上で多くの自由が保障されながらも、実感としてあまり選択の自由がなく、自分の意志が人生に反映されていないと感じている、という調査結果が明らかになった。
http://mezaki.blogspot.com/2010/12/blog-post_17.html

さて、どうして日本人は自由がないと感じているのだろうか。

ちなみにワールド・バリュー・サーベイの調査が最初に行われたのは1981年、そして次が1990年である。その時の日本人の感じた自由度は、両年とも10段階のうち5.5であり、調査国中でも断トツの最下位だった。当時の調査には中東やアフリカ諸国が対象国になかったという事実もあるが、それでも5.5という数字はかなり低い。

1980年から1990年といえば、バブル経済のまっただ中である。そして次の調査が行われた1995年には6に上昇し、2000年も6だった。そして2005年が6.1であったことを考慮すると、若干ながらも上昇トレンドを示している。しかしながら、日本が他の先進国に比べて極端に低い自由度を感じていることには変わりがない。

この理由を明確に指摘することは容易ではないだろう。しかし少なくとも考えられることは、日本人ひとりひとりの意志に、何らかの目に見えない制約があることだ。近代的な民主主義国家である日本の法律では、個人の自由が他の先進国とほぼ同様に保障されている。(ほぼ同様であって、同等ではないことにも注意。しかし「自由度」という点では、上位に入っている。
参照:http://mezaki.blogspot.com/2010/12/blog-post_17.html

したがって大きな理由は、数字には出てこない、なにか精神的な側面であるに違いない。

運命論

ひとつの可能性として考えられるのは、極端な運命論だ。

つまり「人生はすべて運命で決まっているから、自分の意志で選択する余地などない」と考えることである。運命を操作しているのが「神」とするかは別にして、何をしても自分の力では及ばない、もっと巨大な力によって支配されていると考えるならば、自らの意志を反映できる人生の度合いが少ないと感じるだろう。

もちろんどんな人生でも、自分ひとりではどうしようもないことが沢山ある。生まれる場所や時間、そして顔や身体の基本構造などの遺伝情報は、自分自身では決めることはできない。だからといって、自分の意志が自分の人生に反映されていないと考えるのは、かなり極端な宗教的な発想だ。

占いや血液型判断はいまだに根強い人気があるが、占いで人生のすべてを決めている人はほとんどいないだろう。また「人生に選択の自由があるか」という質問に対して、「元来、人に自由意志など存在するのだろうか」などと、哲学的なことを考える人も、ごく少数であろう。したがって、こういった極端な運命論に、日本人全体が感化されている可能性はきわめて低い。

実際にワールド・バリュー・サーベイによる別の調査を見てみると、世界のほとんどの人々は極端な運命論を信じていない。日本で極端な運命論を信じている人は、わずか3.7%だった。

例外として、エジプトやモロッコといった一部のイスラム教徒で、国民の50%近くが「すべてが運命によって定められている」と考えている。しかし敬虔なカトリック教徒であるラテンアメリカでも、10%程度の人しか極端な運命論を信じていない。またその他の先進諸国でも、極端な運命論者は平均的に5%以下である。そして同じイスラム教徒でも、イランでは7%、ヨルダンでは5.6%と、先進諸国と同程度の国もある。

宗教が強い運命論を信仰させることはあるが、それが必ずしも「人生における選択の自由」という感覚を減らすことはない、という結果である。


無力感を学習する

ここで、「自由」に関連するとても興味深い心理学の実験を紹介したい。

米国の心理学者マーティン・セリグマンは、数匹の犬を3つのグループに分けて、次のような実験を行った。まずひとつ目のグループと、ふたつ目のグループの犬たちに、微量の電気ショックを与えた。ただしひとつ目のグループの犬たちだけ、あるパネルを押すと、そのショックが止まるしかけになっている。ふたつ目のグループの犬たちには、そのようなパネルは存在しない。そして3つ目のグループの犬たちには、電気ショックは一切与えられなかった。

しばらくすると、すべてのグループの犬が、ひとつのケージへと移された。そしてすべての犬に微量の電気ショックが与えられた。そのケージの壁は低く、飛び越えようと思えば簡単に飛び越えることができる高さだった。さて、結果はどうなっただろうか。

ひとつ目と3つ目のグループの犬たちは、すぐに壁を飛び越えて外に逃げた。しかし、ふたつ目のグループの犬たちは、その場で身をかがめて電気ショックを受けながら鳴きつづけた。ふたつ目のグループの犬たちにとって、電気ショックは逃れられないものだと「学習」してしまい、逃げ出すという努力もやめてしまったのである。このような状態を「学習性無力感」とよぶ。

セリグマンはその後、似たような実験を人間にも行った。しかし人間を対象に電気ショックを与えるのは倫理的に問題があったのか、代わりに不快な騒音で実験を行った。

ひとつ目のグループの人たちには、不快な騒音を聞かせるのと同時に、それを止めることができる選択肢を与えたのに対して、ふたつ目のグループの人たちには、不快な騒音を止める手段を与えなかった。

しばらくすると、両グループの人たちは、止めようと思えば止められる騒音を聞かされた。すると、犬の実験と同じように、ひとつ目のグループはすぐに騒音を止めたが、ふたつ目のグループは、不快な騒音を止める努力をしようとはせずに、黙って不快な騒音を受け入れた。

以上のセリグマンの実験は、自由を感じていない日本人の状況を説明できないだろうか。

少なくとも法律上は他の先進諸国とほぼ同等の自由があるのにもかかわらず、人生が自由だと感じられないという心情には、「自由」という選択を何らかの理由で放棄しているか、もしくはあきらめていることになる。学習性無力感と非常に似ている状態だ。いずれにしても、何か大きな障壁が存在することになるだろう。

そこで日本人の自由を阻害するものを、日本社会に存在する「見えない抑圧」という点で考えてみよう。

たとえば「しがらみ」とか「世間体」という言葉に代表されるように、日本には常に周囲と同じ行動をとるべきというプレッシャーがある。米国の文化人類学者で『菊と刀』の著者でもあるルース・ベネディクトは、日本の文化を「恥の文化」と称した。つまり日本の社会では、ひとりひとりが「恥」という意識を持つことによって、各自の行動を制約するのである。これは「罪の文化」である欧米とは性質が違う。そこで日本では、個人がどんなに好きな人生を送ろうと思っても、必ずといっていいほど、いろいろな「しがらみ」があり、「常識」という制約のために、好きなことができない場合が多い。

周囲とまったく同じことをしていれば、「恥ずかしい」と感じることは決してないだろう。つまり人と違う行動を「恥ずかしい」と感じる心の奥底には、集団へ同化することへの圧力が背景にあると考えられる。

「常識的に生きる」という発想は、多くの日本人が共有しているだろうが、常識的な行動とは、ある特定の集団での平均的な振る舞いにすぎない。したがって常識をいつも意識することは、いつも集団と同じ行動をしなければならないという抑圧にさらされることでもある。家族、親戚、友人、そして近所の人々と、いつもどこかで誰かが常識を盾に、「見えない抑圧」によって個人の行動を制約しようとする。

もちろん、どこの文化にも常識は存在する。常識がなければ、社会は成り立たない。しかし日本の社会は、常識というものが善悪を判断する基準となっている。何が正しくて、何が間違っているかと判定するためのよりどころが、それが常識的であるかどうかという判断になっているのである。そこで常識や世間体という制約が人々の心に重くのしかかり、法律上の権利として与えられた「自由」を行使することができずにいるのかもしれない。だからといって、その状況に完全に満足していないために、自分の人生には自由がないという不満が残っているのだろう。

2010年12月17日金曜日

選択の自由がありますか?

ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン教授は、かつてこう語っている。

「社会が発展する意義は、個人の選択の自由を広げることにあり、豊かさはその次である」

いくら豊かになろうとも、個人に自由がなければ意味がないということだろう。

それでは実際に、人々がどの程度の自由を感じているか、尋ねてみたらどうなるか。

ワールド・バリュー・サーベイでは、世界中の人々を対象に、次の質問をしている。

「あなたの人生には選択の自由と、自らの意志を反映できる人生がどの程度ありますか」
 
さて、日本人はどの程度の自由を感じているのだろうか。

回答は1から10までの度合いで、1が「まったく感じられない」、10が「非常に強く感じる」というスケールで評価されている。2005年に行われた調査では、日本人の平均は6.1であった。これは56ヶ国中49位であり、厳格なイスラム国家のイラン(7.1)や、飢餓と貧困で世界から注目されることが多いアフリカのエチオピア(6.2)よりも低い。ちなみに最下位はイラク(5.4)とモロッコ(5.3)である。

世界の中でも、日本人がこれほど自由と感じていないとは驚くべきことである。
 
それでは、世界で最も自由と感じている国はどこだろう。直感的には、やはり北欧を中心とする北西ヨーロッパではないかと思う人のではないだろうか。実際の結果は、以下の通りである。
 
1位 メキシコ(8.4)
2位 コロンビア(8.0)
3位 アルゼンチン(7.9)、トリニダード・トバゴ(7.9)、ニュージーランド(7.9)
 
3位以後は、スウェーデン(7.8)やフィンランド(7.8)の北欧勢が追随しているが、肩を並べるようにウルグアイ(7.8)、ブラジル(7.7)と、やはり上位をラテンアメリカ勢が占めている。
 
フリーダムハウス
 
「自由」について本人に尋ねた調査であるワールド・バリュー・サーベイとは別に、各国の自由度を客観的に調べている機関がある。

アメリカに本部をおくNGOフリーダムハウスは、世界192ヶ国の「政治的自由」と「市民的自由」というふたつの指標から「世界の自由度」を発表している。
 
政治的自由度とは、どれだけ自由に政治的活動ができるかであり、市民的自由度とは、表現や信仰などの個人の自由を基準にしている。それぞれが1から7までの数字で表され、

「1(政治的自由)-1(市民的自由)」

が、最も自由度が高いことを示す。結果をみてみよう。

政治的自由と市民的自由の両方が「1-1」と、最も自由度が高い国は、欧米諸国ではギリシャを除いたすべての国だった。
東欧では、バルト3国、ハンガリー、ポーランド、スロバキア、スロベニア、中南米では、バハマ、バルバドス、チリ、コスタリカ、ドミニカ、ウルグアイ、そして小さな島であるカーボベルデ、キリバス、マーシャル諸島、ミクロネシア、ナウル、パラオ、ツバルが、「1-1」と、最も自由度が高い。
 
日本はギリシャと同じで、「1-2」であった。

ワールド・バリュー・サーベイで最も自由だと回答していたメキシコは「2-3」、コロンビアは「3-3」、アルゼンチンは「2-2」、ブラジルは「2-2」と、ある程度の自由度は維持しているが、欧米諸国に比べると客観的な自由度は低い。そして「7-7」と、世界で最も自由度の低い国は、ミャンマー、キューバ、リビア、北朝鮮、ソマリア、スーダン、トルクメニスタン、ウズベキスタンだった。そして中国とサウジアラビアは「7-6」、イランとイラクは「6-6」であった。
 
フリーダムハウスの調査は、ワールド・バリュー・サーベイと比べてみると、とても興味深い比較ができる。

まずラテンアメリカ諸国が、客観的な自由度よりも高い自由を感じていることである。日本については、客観的な制度としての自由度は高いのだが、人々は実際に自由を感じていない。またそれとは反対に、イランやサウジアラビアでは、客観的な自由度が世界で最低レベルであるのにもかかわらず、そこに住む人々は、日本よりも自由だと感じている。

たとえ環境としての自由が整備されていても、そこに住んでいる人が自由を感じていないのならば、その社会は窮屈に感じるだろう。ラテンアメリカの幸福度が高いこと、そして日本の幸福度があまり高くないことと、無関係ではないはずである。

さて、それでは日本人はなぜ、それほどまでに自由を実感じていないのだろうか。

次回から、もうすこし掘り下げて考えていきたいと思う。




2010年12月10日金曜日

裁判員裁判の是非

死刑を求刑されていた鹿児島老夫婦殺害事件で、裁判員は無罪と判断した。
http://www.asahi.com/national/update/1210/SEB201012100004.html

これは凄いことだ!と思ってしまった。裁判員裁判制度がはじまってから、厳しい判決が出る傾向があるなあ、と考えていた矢先だったからだ。

あたりまえの話だが、真実がどうかと判定することは難しい。今回の判決にしても、最近の検察による不祥事で、裁判員が検察をあまり信用しなくなったという影響もあるだろう。検察側からしてみれば、一部の不祥事によって、検察全体の信用が落ちることに不満もあるかもしれない。「自分は真面目にやっているのに」と思う検察官も多いに違いない。

しかしながら、日本では検察が起訴した場合の有罪確定率が99.9%という、とんでもない事実を忘れるべきではない。要するに、検察が「起訴」すると、「有罪」が確定するので、ある意味では裁判所も弁護士も必要ない。大阪地検特捜部の証拠改ざん事件などは、そういった司法システムの歪みから生じた事件ともいえるだろう。

そこで市民が参加する検察審査会は、巨大化した検察の権力をけん制する解決策として導入された。しかしこれは、「不起訴」になった事件を必要ならば強制的に「起訴」できるものであって、起訴されたものを「不起訴」にすることはできない。それでも、裁判所がまともに機能していれば問題ないのだが、現実はちょっと複雑のようである。裁判官にとっても、検察が起訴したものに「無罪」を言い渡すことは、検察を敵に回すことになる。そこで自己保身のために、そのまま有罪にする誘惑に駆られてしまうこともあるだろう。

したがって、最後の頼みの綱が裁判員裁判となる。一般市民にとって、検察の有罪確定率が上がろうが下がろうが、まったく関係ない。もちろん素人によって判断されるという危険性もあるだろう。しかし最終的には、社会的な正義は社会のコンセンサスによって決定されるべきではないだろうか。その意味でも、今回の無罪判決は、日本の司法制度において非常に意味のある判決といえるだろう。

2010年11月30日火曜日

サンデル教授的に現代ニュースを「正義」で分析 (1)

ハーバード大学マイケル・サンデル教授の著書『これからの「正義」の話をしよう』を参考に、最近のニュースを分析してみようと思う。

まず、緊急避妊薬について、以下のような記事があった。

厚生労働省の薬事・食品衛生審議会医薬品第1部会は26日、避妊に失敗したときなどに服用し、望まない妊娠の可能性を下げる緊急避妊薬ノルレボ(成分名レボノルゲストレル)について、製造販売を承認しても差し支えないとする意見をまとめた。

 同省は12月上旬まで一般から意見を募り、同下旬の薬事分科会で最終結論を出す予定。
 ノルレボは女性ホルモンの一種である黄体ホルモンの製剤で、医師の処方により性行為後72時間以内に1回服用。排卵の抑制などで妊娠を80%以上抑える効果があり、欧米など48か国で承認されている。国内では製薬会社「そーせい」(本社・東京)が昨年9月に承認申請していた。
 性行為後の避妊薬を巡っては、安易な使用を招き、性感染症も予防できるコンドームの普及を阻むといった慎重論がある。その一方で、女性の心身を深く傷付ける人工妊娠中絶を避けられるようになるとして、医師らが導入を要望していた。
(2010年11月27日13時05分  読売新聞)
ここで注目したいのが、「慎重論」と、「容認論」の立場の違いである。

慎重派は、緊急避妊薬が性行為後に使用するものなので、

コンドーム普及率低下=>性病の蔓延=>社会的コスト高

というロジックだろう。これは、最大多数の最大幸福をとなえる「功利主義」と考えることができる。

その一方で医師による容認派は、

緊急避妊薬の普及=>中絶が減る=>女性の心身の保護

であり、これも一見すると功利主義という印象を与える。つまり、結果として女性をはじめとする社会全体の幸福度が上がるという発想だ。たしかに功利主義的な側面もあるだろうが、もうひとつ、読売新聞の記事では触れていない点がある。それは、「女性の選択肢を増やす」という事実がふくまれていることである。

人工妊娠中絶が合法である日本では、中絶の是非については社会問題となっていない。しかしアメリカでは、「生命」をどう定義するかという意味で、中絶を「殺人」と考える人びとが中絶を反対している。反対派の一部には過激な人もおり、中絶をしている病院の医師を射殺するという事件までおきている。それに対して容認派は、「中絶は女性が選択する権利」であると主張する。これは個人の自由を尊重する「リベラル派」と呼ばれている。

つまりリベラル派からすると、緊急避妊薬を容認することは、女性が「妊娠するかしないか」という選択を自ら得ることになる。

販売の容認を要望している医師たちが、実際にリベラル派として「女性の権利」を念頭においていたかどうかはわからない。便宜上、「社会全体の利益につながる」という功利主義的な説明で主張したほうが、「個人が選択する権利だ」と説明するよりも、厚生労働省の官僚に受け入れやすいという現状もあったのかもしれない。
いずれにせよ容認されれば、結果として女性の選択肢が広がることは間違いない。

それでは、慎重論に対して、リベラル派はどのように反論するだろう。
個人の自由を最大限に尊重し、個人に対して政府の関与は最小限にするべきだと考える「リバタリアン(自由原理主義者)」は、

「コンドームを使おうと使うまいと、政府に言われる筋合いはない!」

と憤るだろう。自分の体の所有者はあくまで自分であり、たとえ性病になったとしても、それは自分の責任だということだ。

それに、そもそも緊急避妊薬があるからといって、エイズや他の性病を心配しなくなる、などということになるのかという疑問もある。仮にそのような人がいたとしても、そんな愚かな人のために、女性が選択する権利を奪う理由になるのか、という意見にもなる。

それに対して、慎重論はどのように反論できるか。

容認されることで、どの程度の性病患者の増加が予想でき、それがどの程度の社会的コスト増になるか、といった試算を示すぐらいだろう。しかしながら、そういった試算は、「女性の心と身体」に与えるコストも考慮しなければいけない。そしてそのコストは、現代社会では非常に大きいはずだ。

うーむ。やはり、どう考えても、容認する道しかないだろう。それが功利主義であっても、リベラルであっても。

いや、コンドームの販売減を心配する関連企業と、中絶で儲けている医者は反対するかもしれない。彼らにとって社会的な「正義」は関係ないからだろう。

2010年11月12日金曜日

お知らせ(参加者募集)

突然ですが、11月25日(木)20:00から、渋谷区広尾のブックラウンジにて
ゆるく哲学をしよう!」と思っています。

最近話題になっているマイケル・サンデル教授著『これから「正義」の話をしよう』を題材にして、みんなでいろいろと話し合おうという企画です。本の解説もします。

サンデル教授の本を読んだ人、買ったけどまだ読んでない人、興味はあるけど・・・という人、聞いたことないけど言いたいことが沢山ある人等々、どなたでも大歓迎です。みんなで、あーでもない、こーでもないと、いろいろ考えましょう。ゆるくて、時には脱線することがあっても、本質的な議論を目指します。

(場所の都合により、20名様限定)

【参加費用】
2000円 (厳選赤ワイン又はソフトドリンク、2杯付!*それ以上はワインもしくはソフトドリンク1杯400円)
【参加申し込み】
以下のURLからお願いいたします。
【日時】
11月25日(木)20:00-23:00
【開催場所】
東京都渋谷区広尾5-9-26 第二木下ビル4階
(看板などだしていませんので、エレベータでそのまま4階までいらしてください。)
詳しくは、ブックラウンジ・ココロウタ(心偈)まで





2010年10月18日月曜日

不良社員に、会社の責任はあるか


七十七銀行の行員である門脇大貴(26)容疑者が、住居侵入と盗みの疑いで仙台北署に逮捕された。(2010年10月17日)
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/10/20101017t13015.htm

仙台市青葉区の女性(81)方に、勝手口の窓ガラスを割って侵入し、室内の現金約18万円を盗んだ疑いである。門脇容疑者は「消費者金融に借金があった」と容疑を認め、数件の余罪をほのめかしているという。

しかしここで気になったのが、

「行員が逮捕される事態となり、誠に申し訳ない。深くおわびするとともに、警察の捜査には全面的に協力する」
とコメントを発表した、七十七銀行である。

行員が逮捕されることは、銀行にとってマイナスのイメージがあることは間違いないだろう。ちなみに七十七銀行とは、宮城県仙台市に本店を置く東北地方最大の地方銀行だ。そこで銀行としては、火消しに奔走しているのかもしれない。

しかしよく考えてみると、この逮捕された行員は銀行の金を横領していたとか、銀行の名前を語って詐欺をしていたわけでもない。つまり逮捕された人物がたまたま銀行員であったということで、容疑者の職業と容疑のかけられた犯罪には直接関係がない。

はたして、「誠に申し訳ない。深くおわびする」と謝罪する銀行側には、責任があるのだろうか?
もしも責任があるとすれば、事前に何をしていれば「銀行の責任ではない」と、胸を張って主張できるのだろう?

ひとりの成人した個人が、労働力を提供するために会社と契約を結んでいる以上、その個人のプライベートでの行動まで責任を取ることは難しい。もしも会社が社員のプライベートにまで責任を持つ必要があるならば、会社には社員を24時間徹底的に管理する義務が必要となってくるかもしれない。もちろん、そんな会社を望む者はどこにもいないだろう。

「連帯責任」という考えが、こういった行動の背後に見え隠れする。



確かに日本では、犯罪者の家族に限らず、親戚までが非難を浴びてしまう風潮がある。そこで七十七銀行のコメントは、必ずしも銀行側だけに問題があるとも思えない。

もしかすると、銀行側では本心としてまったく責任がないと考えているのにもかかわらず、世間からの非難を回避するために、先手をとって謝罪したのかもしれない。波風を立てないためにも、とりあえず謝っておこう、という心理が働いたとも推測できる。

しかし、本来ならば責任がないはずの人々が社会的責任を追求されるという風潮は、非常に危険な要素を内在している。犯罪者の家族や親戚が自殺に追い込まれるという事件なども、そのひとつである。

個人と、その個人が帰属する集団との責任問題について、もうすこし考える余地があるのではないだろうか。

もしも、隣に住んでいたという理由だけで、隣人の犯罪の責任を追及されたら、理不尽と思う人は多いだろう。自分自身でコントロールできないものにまで責任を追及されるのは、非常に理不尽な社会である。人種差別や性的差別なども、心理構造としては同じである。人種も性別も、自分で選ぶことはできないのだから。


七十七銀行にとって、行員がプライベートの時に起こした不祥事の責任を取らされるならば、非常に理不尽な話である。そして非難されるかもしれないからと、先に謝ってしまうというのも、結局は「連帯責任」という理不尽な風潮を肯定することになる。

社会の風潮は、市民の意識が変わることでどんどんと変化していくものである。そこに明確な意志と、誰もが納得できる理由さえあれば、自発的に変えていくことも可能だろう。



少なくとも、そうやって今までの社会が変わってきたことは間違いない。





2010年10月16日土曜日

哀愁と喧噪のブエノスアイレス

夜中の12時を過ぎるころ、ようやく会場では活気が生まれてくる。センチメンタルなメロディーに、鋭いスタッカートの効いたタンゴの旋律が、高い天井でこだまする。

上半身をぴたりと寄せ合った男女の群れは、楽曲のパートでも演じるかのように、ダンスフロアをゆっくりと反時計回りにながれていく。若い女性と白髪の男性。年配の女性と若い男性。十代のカップル。長年連れ添ってきた老夫婦。

それぞれの男女が、それぞれの思いを込めて、「数分間の恋」という悦にいる。

南米アルゼンチンの首都ブエノスアイレスは、人生を謳歌する者に、年齢や性別、そして時間も制約しない街である。ミロンガとよばれるタンゴを踊るサロン、そして若者の群れ集うクラブでは、平日でも早朝まで、毎晩活況に満ちている。

劇場や映画館は人であふれ、レストランやバー、そして街角のカフェでも、あらゆる年代がその時間を満喫する。東の空がうっすらと明るくなる午前5時、まだ平日というのに、ブエノスアイレスの活力に衰えは見えない。

「南米のパリ」と称されるブエノスアイレスは、アールヌーボー様式の影響を受けた建物が並び、奇麗に区画整理された市街の街路樹は、緑であふれている。一瞬、パリかと錯覚するほどだ。これほどヨーロッパ的な都市は、他の南米諸国にはない。

スペインに次いでイタリアからの移民も多く、生パスタを製造・販売している家族経営の小さな店舗を街のあちこちでよく見かける。また多くのレストランでは、年季の入った石窯を使い、薪で焚いたあつあつのピザが定番だ。そしてアルゼンチン人の話すスペイン語も、リズミカルなイタリア語のなまりがとても強い。

アルゼンチンはワイン大国でもある。生産量がフランス、イタリア、スペイン、米国に次いで世界第5位という事実はあまり知られていない。

アルゼンチンワインの特徴は、豊潤な香りを持つ赤ワイン「マルベック種」だ。しかし生産される9割以上は、国内で消費されている。7割を輸出している隣国チリとは、とても対称的ともいえる。

そしてアルゼンチンの人々は、週末になると友人や家族で集まってバーベキューを楽しむことが伝統となっている。もちろん100%アルゼンチン産の牛肉だ。おまけに鶏肉よりも値段が安い。このような牛肉中心の食文化が、アルゼンチンの旺盛なワイン消費を支えている。

世界を長年旅していた私は、ブエノスアイレスで一年ほどの時を過ごした。中南米では必要不可欠なスペイン語を学びながら、アルゼンチンタンゴをたしなんだ。

そんなある日、私はいつものようにローカルバスで市内を移動していた。荒っぽい運転で有名なブエノスアイレスのバスは、急発進や急加速が当たり前で、乗車中はどこかにしっかりとつかまっていないと車内で転げ回ることになる。

前席の背もたれにあるパイプを右手で握りながら座っていた私の近くに、白髪のおばあさんが乗り込んできた。私はすぐに席を立ち、おばあさんに私の席をすすめた。するとおばあさんは無言で、あたかも当然のように私の席に座った。

「ありがとう」のひと言もなければ、笑顔のかけらもなかった。

ブエノスアイレスの公共交通機関では、年配者は乗車すると真っ先に若者の座る席に近づき、若者たちは当たり前のようにその席をゆずる。そこには、ほとんど会話のやりとりはない。

若者はそそくさと席を立ち、年配者たちはまるでそこに自分の名前が書いてあるかのように席につく。「優先席」という表示はどこにもないが、実質的にはすべての座席が優先席なのである。

そして当たり前のことが当たり前のように行われているだけなので、多くの人にとって、ゆずってくれた人に感謝をするという発想すらないようである。


ブラジルに次いで南米で2番目に大きな領土を持つアルゼンチンは、かつて世界有数の富裕国だった。ただし、それは100年前の話である。

当時アルゼンチンのひとり当たりGDPは、同じ時期の日本の2倍もあった。しかし現在のそれは、今の日本の半分以下となっている。第二次大戦後の、産業構造が変化していく世界に取り残されたという大きな潮流の中、軍部のクーデターによる政権闘争が1980年代前半までつづいたこと、そしてたび重なる経済政策の失敗が追い打ちをかけ、アルゼンチン経済は衰退の一途をたどった。

2001年にはとうとう政府が破綻し、翌年の失業率は25%まで跳ねあがった。そのため多くの国民は職を求めて、スペインやイタリアへ渡っていった。

近年では失業率が9%を割るまで低下してきているが、隣国ブラジルのような新興国の勢いはない。そもそもアルゼンチンは発展途上の国ではなく、ありし日の繁栄の面影を残す、衰退途上の国なのかもしれない。

アルゼンチンは、中南米諸国に特有の貧富の差が非常に大きい。治安については、ブラジルやベネズエラほどの凶悪犯罪は多くないが、窃盗や汚職などは日常茶飯事である。

海外からアルゼンチンへ郵便物を送ると、きちんと手元に届く可能性は非常に低い。また国際空港でも、乗客が預けた荷物を空港の従業員が盗む事件などは毎日のように起きている。これまで何人も逮捕者が出ているが、どうやら大きな犯罪組織が裏に絡んでいるため、警察も癒着関係にあるようだ。

ちなみに、各国がどのくらい腐敗しているかを調査するNGO「トランスペアレンシー・インターナショナル」によると、アルゼンチンの腐敗認識指数は175ヶ国中105位と、世界的に見ても腐敗度が非常に高い。(注:腐敗度の少ない国が上位となる。日本は17位。1位はニュージーランド、2位デンマーク、3位スウェーデン)

このような統計上の数字を見ていくと、アルゼンチンの問題点を探すのはとても簡単だ。しかし、ひとつだけ注目したい事実がある。それは、アルゼンチン人の幸福度が、日本人よりもかなり高いということである。そしてこの事実は、ラテンアメリカ全般にも共通している。

日本の半分以下の富しかなく、日本よりも格段に大きい貧富の格差があり、治安も悪く、失業率も慢性的に高く、そして社会全体にどうしようもないほどの腐敗がはびこっている。そんな社会に住む人々が、日本人よりも幸せだと言っているのである。いったい、これはどういうことなのか。

ラテンアメリカの謎については、これから解明していくことにしよう。しかし少なくとも、ここでひとつだけ言えることがある。

私が出会った数多くのアルゼンチンの人々は、年齢や性別に関係なく、それぞれが人生を楽しむ術を知っており、それを実現することに躊躇しないことである。

彼らの実感している幸せに、決して偽りはないだろう。

2010年10月3日日曜日

論理という魔法

「議論」というと、「理屈っぽいおじさんたちが、ああでもない、こうでもないと、時には屁理屈をいいながら騒いでいる」という印象を持つ人がいるかもしれない。

議論は堅苦しく、また疲れるから嫌いだという人もいるだろう。そもそも議論などは、時間の無駄だと思う人もいるかもしれない。

どんなに話し合っても、理解しあえないことはある。どれだけ議論をつくしても、時には合意に達せないこともある。いくら頭をひねって考えても、言葉で説明できないこともある。だから言葉を超えた理解も必要だろう。

しかしながら、だからといって議論を軽視すると、大きな問題も生じてくる。それは人と人とが理解しある根幹の部分に、「論理:ロジック」という魔法のシステムがあるからだ。

論理とは簡単にいうと、人類が普遍的に共通した理解を共有できる思考のシステムである。もっと簡単にいうと、論理とは人が「わかった」と感じるシステムだ。これは世界各国、どこの文化でも、人類すべてで同じように理解されている。よく「人それぞれ論理が違う」とか、「あなたの論理と私の論理は違う」という発言を耳にするが、論理自体が人によって違うことは決してない。人によって情報量と、そこから結論に結びつくまでの過程が違うのであって、「論理という構造」は誰にとってもまったく同じであり、人類共通の普遍的なシステムなのである。

たとえば、算数がその典型だ。1+1=2であることは、どこの世界でも、どこの文化のどの人種でも、共通して同じ理解をしている。文化や人によって1+1=3になるとか、1+1=5となることはない。そして1+1=2だから、2+2=4だということも、万国共通で理解されている。この因果関係を理解するシステムが、論理といわれるものの根幹となっている。

しかしながら、人類にはひとつの大きな課題がある。私たちは常に、論理的な間違いを犯すということだ。たとえば、ランダムに集めた100人の集団に、数学のテストを解いてもらうとしよう。それを何度かくりかえすとする。出題される問題の難易度にもよるが、100人全員が常に100点満点をとりつづけることはまずない。必ずどこかで、誰かが不正解を出すので、平均点は100点以下になる。どんなに簡単なテストでも、テストを受ける人数が多ければ多いほど、平均点は100点以下になる確率は高くなるだろう。

しかしここで重要なポイントは、みんなが不正解を出すことではない。注目してほしい点は、テストで不正解であっても、それが後で答え合わせをした時に、全員が「不正解だ」と認識できることである。たとえテスト中は間違えても、最終的にはみんなが一緒に「正解」という共通なものを理解することができる。

もちろん、超難解な高等数学などは、いくら解答を説明されても、理解できない人もいるだろう。しかし時間をかけて、ひとつひとつをゆっくりと説明し、段階を追って徐々に理解度を上げていけば、最終的には誰でも理解することができる。理解できないのは、それだけ時間をかけて説明する人がいないか、もしくは理解しようと努力することを怠っているかのどちらかである。

つまり人類の思考には、必然的に「論理的な間違いを犯す」という特徴とともに「論理的な間違いを修正する能力」があり、最終的に人類すべてで共有した理解へたどり着くことができるという特徴があるのだ。

論理的な間違いとは、勘違いも含まれる。しかしこれも、後に「勘違い」だったと気づくことができる。それは数学の間違いを修正するように、論理的な間違いや勘違いを修正するということだ。こういった論理の根本的な特徴があるため、対話をしながらしばらく議論をつづけていくと、お互いの論理的な間違いを修正しあうことが可能となってくる。そして最終的には、みんなが共有した結論へと結びつけることができるのだ。

しかしながら、ここであまりに楽観的になるべきではない。残念なことに、世の中はそう単純にはできていないからだ。どんなに議論をつくしても、合意に達しないことがある。それはなぜだろう。

情報と論理の関係

何かを考える時に非常に重要となる点は、「情報」である。たとえば先に述べた1+1=2という例題があるが、これを「水温1度の水と、もうひとつ水温1度の水を合わせたら、合計で何度になるか」という質問に変えたら、どうなるだろう。

答えは言うまでもなく、1度である。しかし何の説明もしないで「1+1=?」という質問であれば、当然答えは2だ。それが「1+1=? ただし、1は水温1度を表す」と表記してあれば、答えは1となる。つまりこのふたつの問題の違いは、論理の問題ではなく仮定条件の違い、つまり解答する者に与えられる情報の違いなのである。

水温の問題であっても、ただし書きを読まなければ、誰でも正解を2だと思うだろう。くりかえすが、この両者の問題は「違う論理」でつくられたのではない。論理、つまり解を導く思考の方法はまったく同じだが、途中経過で与えられている情報が違うだけなのである。

情報量の違いによって違う結論に達することは、議論をする際に常に起こる問題である。人それぞれ、生まれてから蓄積してきた情報量がまったく違う。そこでいくら頭のキレがよく、論理的な間違いを一切犯さなくても、まったく違った結論になることがある。

たとえば、実際に私が体験したことで、次のような出来事があった。

ある日の昼下がりに、屋外の競技場で友人とスポーツ観戦をしていた時のことだ。日差しの強い真夏日だったので、午後の日差しを避けるためには、どこの席が最適かと、私は友人と話し始めた。いろいろな諸条件、つまり現在の太陽の位置と時間、東西南北がどちらかという競技場の位置関係、そして競技場の壁の高さと場所を考慮して、私たちは予測をし始めた。しかしいくら話が進んでも、いつもは非常に頭の回転が速い友人が、今回ばかりは意味不明で、私にとってちんぷんかんぷんな主張をしていた。すると、ふとある事実に気がついた。友人はオーストラリア人だったのである。つまり南半球にあるオーストラリアでは、太陽の動く方向が北半球とは逆になる。私たちのいた競技場はヨーロッパだったので、結果的には私が正しかった。しかし、もしもそこが南アフリカのヨハネスブルグであったならば、私も気がつかずに友人と同じような主張をしていただろう。

どんな人でも、必ず論理的な間違いを犯すことがある。しかし不思議なことに、それを間違いだと認識して修正する能力も備えている。そしていくら論理的に正確であったとしても、情報の差によって結論が違ってくる。そこで、このふたつの事実を同時に有効利用する方法がある。それが「議論」なのだ。議論をつづけることは、お互いに持っている情報を交換しあうだけでなく、論理的な間違いの修正もされていく。さらに議論がすすむにつれて、お互いに何の情報が欠けているかが明確になってくる。

相手に自分の持つ情報を伝えあうという作業をつづけると、そのうちにお互いの情報量が均衡へと近づいていく。「議論が出尽くす」という状態になった時は、その議題について双方の持つ情報量がほぼ均衡したことであり、また論理的な間違いも最小限度まで修正されているはずである。参加者が多ければ多いほど、論理的な修正の精度が上がってくるが、その一方で、参加者全員が均衡した情報量に達するのは難しくなってくる。それを解決するためには、時間をかけるしかない。時間をかけて、じっくりと議論を進めれば、そのうちに合意点へと収束されていくのだ。この方法は、古代ギリシャ時代の哲学者ソクラテスが実践したといわれ、対話法もしくは問答法とよばれている。

また議論をすることで、お互いに情報交換ができるのと同時に、思考が刺激されることで、お互いの知的レベルが上がることは間違いない。そうして知的レベルが上昇した者同士が議論をすることで、さらなるレベルの向上が可能となってくる。

1+1=2という事実を、なぜ人類が共通して理解できるのかという詳細なメカニズムはまだ解明されていない。しかしこれからさらに人間の脳の研究がすすむことで、将来的にはすべてが解明される日が来るだろう。いずれにせよ、私たちが「論理」という共通したツールを持っていることは間違いない。人と人が理解しあるために必要不可欠であるこの「論理」を生かすも殺すも、議論次第なのである。

世代、性別だけでなく、国境や文化を超えて人が人と理解しあうには、論理という共通項を利用するしかない。しかし議論をするという努力がなければ、論理の間違いが修正されず、また偏った情報を持ち合うことで、お互いにすれ違いで終わってしまうだろう。本当に理解しあいたいならば、本気で対話や議論をしてぶつかりあうことこそが大道なのである。

以心伝心では、決して達成されることはない。

2010年9月12日日曜日

幸福度について: アジアと日本の限界

日本の幸福度と比べて、似たような結果が出てきた国々がある。
韓国、台湾、香港の東アジアと、シンガポールだ。

幸福度を調査する方法は、大きく分けて2つある。ひとつは、直接本人に「どれだけ幸福か」もしくは、「どれだけ生活に満足しているか」と尋ねる方法で、主観的幸福度と呼ばれる。
ここでは、「内面的な幸福度」と呼ぶことにする。

もうひとつは、平均寿命、ひとり当たりGDP、成人識字率、就学率などを基本データとして導き出されるもので、代表的なものに国連の人間開発指数(HDI:Human Develeoment Index) や、英紙『エコノミスト』の生活の質指数(QLI: Quality of Life Index)がある。これらは、本人の主観がまったく考慮されていないので、「外面的な幸福度」と呼ぶことにする。

シンガポールと香港は、ひとり当たりGDPが現在では日本よりも高い。生活の質指数(QLI)では、シンガポールは11位と、日本の18位よりも上位につけている。しかし内面的な幸福度を見てみると、どの統計結果でも、韓国、香港、台湾は、日本よりもさらに低い順位となっている。シンガポールのみが、内面的な幸福度が日本よりも若干上位につけている。

以下は、外面的と内面的データによる、東アジアとシンガポールの調査結果である。

<外面的な幸福度>


 国連・人間開発指標(179国): 
日本8-9位、韓国26位、香港24位、シンガポール23位、中国92位

 生活の質指標(111国):    
日本17位、韓国30位、香港18位、台湾21位、シンガポール11位、中国60位


<内面的な幸福度>

 レスター大学調査(178国)
日本88-91位、韓国100-103位、香港61-70位、台湾61-70位
シンガポール50-55位、中国81-87位

 ワールド・バリュー・サーベイ(97国)
日本43位、韓国60位、香港61位、台湾47位
シンガポール30位、中国52位

 ワールド・データベース・オブ・ハピネス(146国)
日本49-50位、韓国65-69位、香港65-69位、台湾60-62位
シンガポール35-37位、中国58-59位


さて、東アジアと呼ばれる日本、韓国、台湾、香港、中国、そして、それに加えてシンガポールに共通するものは何だろう。

もちろん、地理的な近さが挙げられる。しかしシンガポールは、東南アジアに位置するので、マレーシアやインドネシアのほうが近い。では、文化的な共通点はどうだろう。アジアの国々が、歴史的に古くから密接に関わっていることは確かである。

日々の生活から政治的な問題まで、人々の精神に大きな影響を与えているのは、やはり宗教観だろう。そして上記した国々に共通する宗教とは、三教といわれる儒教、仏教、道教である。(シンガポールは、人口の75%以上が華人)

その中でも儒教は、仏教や道教とは決定的に異なっている点がある。それは、儒教が社会性や政治性といった「社会組織の原理」を説いていることである。そして儒教の説く社会性は、主に集団主義を意味している。

集団主義とは個人主義と正反対に位置するもので、定義としては比較的に広く使われることが多い。社会主義や共産主義、そして全体主義のスローガンとしても使われることがあった。もっとわかりやすくいうと、個人が自分の利益ではなく、他人や社会の利益を優先して行動をすることで社会全体が豊かになり、それが最終的に個人にも有益となる、という発想である。

社会という集団生活では、個人が他者のために協力することは必要不可欠である。そこで、ひとりひとりが少しずつ我慢することで社会全体が豊かになるという発想は、とても効率的に聞こえる。そのうえ、近代の東アジアにおける急速な経済発展を考えてみると、儒教的精神と経済発展には密接な関係があると推測する説もある。

実際に日本を始めとして、香港、シンガポール、台湾、韓国、そして最近では中国の経済は、世界の平均的なレベルと比べても段違いの急成長を果たしてきた。規律を守り、自己を犠牲にしてでも社会のために尽くすという精神は、産業革命以後の工業化には最適であったのだろう。こうした経済発展は集団主義のおかげといっても過言ではないのかもしれない。

ドイツの社会・経済学者マックス・ウェーバーは、西洋社会の資本主義を発展させた大きな理由として、キリスト教のプロテスタント派の中で、カルバン派の合理性と労働倫理が大きく貢献したと論じている。

形式にこだわるカトリックと違い、合理的でかつ労働すること自体を美徳としていた勤勉なカルバン派の影響が、イギリスを始めとする産業革命へと導いていったということだ。世界のどの国を見ても、宗教からくる価値観が経済発展に与える影響を無視できないだろう。それは人々の生活において、行動の原則となる善悪を判別する際に、宗教の価値観が大きく関与しているからでもある。

ただし、アジアでも儒教の影響をほとんど受けていない国々もある。

人口の90%以上がキリスト教徒であり、そのうち83%をカトリック教徒が占めるフィリピン、世界最大数のイスラム教徒を抱えるインドネシア、ヒンズー教徒が多数を占めるインド、そして上座仏教徒のタイ、カンボジア、ラオス、スリランカ、ミャンマーである。

これらの国のひとり当たりGDPを見てみると、儒教国とは大きな差があることがわかる。

フィリピンとインドネシアのひとり当たりGDPは、それぞれが約30万円、そしてインドは約25万円、タイは約70万円、カンボジアは約18万円、ラオスは約20万円、スリランカは約42万円、ミャンマーは約10万円と、いずれも100万円にも満たない。それに比べて、日本は約300万円、韓国は約250万円、香港は約380万円、台湾は約270万円、そしてシンガポールは約445万円と、差は歴然としている。


マレーシアのひとり当たりGDPは約120万円だが、人口の約25%を占める中国系の人々の役割は絶大なものがある。

マレーシアの経済誌『マレーシアン・ビジネス』によると、マレーシアでの個人資産総額上位10人のうち、8人が中国系だと発表している。マレー系人口が約65%(インド系は約7%)という事実からしても、中国系の影響は尋常ではない。さらに、タイにおける中国系人口が約14%であることから、周辺国よりも若干経済発展が進んでいるのではないかという推測もできる。実際に、タイ経済における中国系の存在感は非常に大きい。やはり儒教的精神の影響を受けた国々が、近年において飛躍的な経済発展を遂げていることは紛れもない事実なのである。

しかし例外として、北朝鮮と中国がある。

北朝鮮のひとり当たりGDPは約16万円、中国は約60万円である。共産党の一党独裁政権である中国と北朝鮮では、同じく共産主義圏であった東欧や旧ソビエト連邦とともに、過去に経済が大きく停滞した。しかしソ連が崩壊した1991年以後、中国はそれまで一部に限定されていた市場経済をさらに強く押しすすめた。そして最近の目まぐるしい中国の経済発展は、周知の事実である。しかし北朝鮮については、いまだに閉鎖的な独裁政権を維持しているので、世界でも最貧国のひとつに属している。

つまりここから推察できることは、たとえ儒教的精神を持った社会であっても、国の政治体制の違いによって、経済発展の度合いがまったく違ってくるということだ。そして経済発展に必要不可欠な政治体制とは、やはり市場経済が基本であることは間違いない。そして儒教の影響を受けた国家で、市場経済を導入した国は、すべてが急速な経済発展を果たしているという事実は見逃すことができないだろう。

その一方で、いくら急速な経済発展をしても個人の幸福度が上がらないという点も、儒教国に共通している。

ただしよく考えてみると、これは集団主義の精神と矛盾していない。つまり個人より集団が優先されることで社会全体を豊かにするという集団主義の発想は、たとえ社会が豊かになっても、基本的な精神は急には変わらない。そこで個人より集団が優先されるというシステムは、社会が豊かになった後も継続されていく。

そもそも「社会全体の豊かさ」とは曖昧なものであり、それを「富の蓄積」とするならば、いくら富を蓄積しても終わりがない。実際に日本は世界で第2位の経済大国にまで登りつめたが、「ここで経済発展を終わりにしよう」という話にはならない。そこで集団主義の社会体制がつづき、個人を軽視するために個人の幸福度については、ある程度以上で頭打ちとなってしまう。

最初から「個人の幸福」が優先されていないので、個人の幸福度が高くならないのは当然である。それに比べると、個人主義的な社会とは、個人が優先される社会である。つまり個人の幸福を追求するために最適な社会をつくるという考えである。

そもそも「個人の幸福度を高める」という発想自体が、個人主義的な考えである。そこで集団主義社会での個人の幸福度は、いくら社会全体が豊かになろうとも、個人主義社会には決して追いつくことはないだろう。

これは当たり前といえば、当たり前の話である。

ひとりひとりが我慢しあってできた集団は、全体が豊かになれば個人も幸福になる気がする。しかしフタを開けてみると、ひとりひとりが我慢しつづけるかぎり、ひとりひとりの幸福度もある程度以上は上昇しないという、まったく矛盾した結果になってしまう。それは最初から、個人の幸福を追求するという社会構造ではないからだ。

個人の幸福よりも、社会の秩序が優先されるのが集団主義の根本原則なので、至極当然の結果である。日本は、もうそろそろ集団主義から次のステップへと移行してもいい頃ではないだろうか。

少なくとも、いくら社会の改革を叫んだところで、「長いものに巻かれろ」や「事なかれ主義」といった、基本的な姿勢としての集団主義から脱却しないかぎり、日本の幸福度も上昇しないということだろう。

2010年8月27日金曜日

幸福度について: ⑦寛容さと幸福度

ある国の幸福度を知るために、非常に大きな手がかりとなる指標がある。その国が、どれほど個人に寛容かである。

社会での寛容さとは、他人とまったく違う思想、行動、言動であっても、それを平等に認めることである。つまり寛容な社会では、人々にとって選択の自由が広がることになる。

ワールド・バリュー・サーベイ所長であり、米国シカゴ大学教授のロナルド・イングルハート氏は「人間はおびえずに生きていれば、それだけ他人にも寛容になれる」と語っている。これは、ルーズベルト第32代米大統領が宣言した「人類に普遍な四つの自由:①言論の自由、②宗教の自由、③欠乏からの自由、④恐怖からの自由」にも通じている。

もっとも、当時ルーズベルトが提唱した「④恐怖からの自由」は、国家の侵略行為など、政治的な意味として使われた。しかしそれは、政治の話にとどまらないということだ。自分が自由であるならば、人とも自由を分かちあおうとする心理が働くのであろう。

では、どうすれば、ある国の寛容さを調べることできるのだろうか。

たとえば、本人に直接「あなたはどれだけ他人に寛容ですか」と尋ねるのはどうだろう。しかし寛容さとは、なかなか自分で客観的に判断できるものではない。そもそも、どうやって自分の「寛容さ」を決定すればいいのか、基準が非常に曖昧(あいまい)な点もある。そこで寛容さを調べるためには、何か、より客観的な視点が必要となってくる。

ひとつの方法がある。その国が、大多数の人々とはまったく異質な人の権利をどれだけ保障しているかを見ればいいのである。つまり、少数派の人々にどれだけ「懐の深さ」があるかを見ることである。

ひと言で「少数派」といっても、社会にはいろいろな少数派が存在する。たとえば、民族や人種としての少数派だ。しかしこういった少数派については、各国の歴史的な事情によって大きな違いが存在している。アメリカをはじめとする、移民によって作られた国と、日本のように国民の圧倒的大多数が単一民族である国を、単純に比較することはできない。そこで、世界のどこの国でも少数派の立場となっている人々を見る必要がある。

どの社会でも、常に少数派である人々とは、近年「LGBT」と称されている、性的少数者である。LGBTとは、Lesbian(女性同性愛者)Gay(男性同性愛者)Bisexual(両性愛者)Transgender(トランスジェンダー)の頭文字である。そして、近年多くの国で議論の対象となっているのが、同性愛者間での結婚を、法律でどのように扱うかという問題である。

北欧を含む西ヨーロッパでは、ほとんどの国で事実上の同性結婚を認めている。例外は、イタリアとギリシャのみである。そしてイタリアとギリシャの幸福度を見ると、西ヨーロッパの中では最低である。

東ヨーロッパのほとんどの国では、同性結婚を一切認めていない。そして東ヨーロッパの幸福度は、世界最貧国のアフリカ諸国並みに低い。

ラテンアメリカでは、アルゼンチンが近年になって同性結婚を合法化しており、ブラジル、コロンビア、エクアドルでは、事実上の同性結婚を認めている。そしてラテンアメリカの幸福度は、世界的に見ても非常に高い。

それとは対称的に、多くのイスラム教国では同姓結婚どころか、同性愛そのものが違法となっている。特にサウジアラビア、イラン、イエメン、モーリタニア、スーダンでは、同性愛者は死刑の対象である。イスラム教国で、幸福度が高い国はほとんどない。ひとり当たりGDPが世界で一番高いカタールや、世界最大の原油埋蔵量があるサウジアラビアを見ても、その裕福さと比較して幸福度は高くない。

アフリカでは、同性結婚を認めているのは南アフリカのみである。アフリカでは伝統的な価値観が強いことと、さらに多くのイスラム教徒を抱えていることもあり、ほとんどの国で同性愛が違法となっている。そのようなアフリカが世界最低の幸福度であることは、すでに述べた。

そして日本では、同姓結婚が認められていないばかりか、政治的な話題にさえあがっていない。隣国の韓国でも状況は日本と同じで、幸福度についても韓国は日本よりも一貫して低い。

ここで、まとめをしてみよう。幸福度の高い国では、同姓結婚を認めているケースがほとんどであり、同姓結婚を認めていない国で、幸福度の高い国はない。唯一の例外は、世界でもトップクラスの幸福度の高いコスタリカのみである。しかしコスタリカでも公式に合法化の動きは進んでおり、2010年4月にアリアス大統領は同姓結婚合法化の支持を表明している。また、全般的に幸福度の高い中南米諸国でも、同性愛を違法としているジャマイカ、ベリーズ、ガイアナ、グレナダは、比較的に幸福度が低いという結果がでている。

寛容さを調べるには、同姓結婚以外にも方法がある。

男女がどれほど平等に扱われているかを見ることである。それは、すでに前述した男女平等指数を活用すればいい。
http://mezaki.blogspot.com/search/label/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E5%BA%A6%E3%80%80%E5%87%BA%E7%94%9F%E7%8E%87

世界で最も男女平等が進んでいる国は、アイスランドである。そして2位はフィンランド、3位ノルウェー、4位スウェーデン、5位ニュージーランドとつづく。やはり上位は、欧州諸国が独占している。そしてこれらの国は、幸福度でも常に世界の上位を占めている。

例外は、6位の南アフリカ、9位のフィリピン、10位のレソト、16位のスリランカである。しかしながら、南アフリカ、フィリピン、レソト、スリランカのいずれの国も、ひとり当たりGDPが100万円以下である。したがって、いずれの国も幸福度は低い結果となっている。つまり、男女平等指数が高いのにもかかわらず幸福度が低い国は発展途上国だけの現象であり、先進国には当てはまらない。

南アフリカは、アフリカで唯一、同姓結婚も認めているのだが、幸福度は世界的に見てもかなり低い。南アフリカのひとり当たりGDPはちょうど100万円を割り込む程度であり、最貧国ではない。しかし、長年つづいた人種隔離政策と、その後の政策転換による反動などで、社会はいまだに安定しているとはいえない。犯罪率は世界でも最悪であり、特に凶悪犯罪の数は多い。失業率は20%以上もあり、貧富の格差も大きく、社会全体にエイズも蔓延している。そこで平均寿命は、わずか42.1歳である。そうした社会的な不安定さは、南アフリカの幸福度を低くしている原因と考えられる。したがって、国の制度として同姓結婚や男女の平等を推進しても、他の社会条件があまりにも劣悪な場合は、幸福度は上がらないということである。いずれにせよ、南アフリカは数少ない例外のケースと考えていいだろう。

ひとり当たりGDPが100万円を超える国で、男女平等指数が比較的に高いのにもかかわらず幸福度が低い国は、東ヨーロッパのみである。共産主義という名目のもとでは、男女ともに労働にいそしむという風潮があったからかもしれない。しかし東ヨーロッパでは同姓結婚がまったく認められていないように、個人にとっての寛容さはまだ低いといえる。したがって男女平等指数が高いことに加えて、同姓結婚が認められているという両方の条件を満たしていることが、寛容度の高さを表すことになる。

日本の男女平等指数は、134国中101位である。これは最下位を独占しているイスラム教国を若干上回る程度であり、アフリカのジンバブエ、マラウィ、タンザニア、バングラデシュ等の世界最貧国よりも低い指数である。

日本の男女指数の内訳を見てみると
① 経済参加と機会 108位
② 教育の格差     84位
③ 健康と生存     41位
④ 政治力       110位

となっている。つまり健康と生存以外は惨憺たる結果である。また、経済参加と機会において同一労働での男女給与格差が99位、男女収入格差では100位、女性の労働参加では83位、女性管理職の数では109位、専門職での女性の数は77位であった。しかし教育の格差での識字率、小中学校での男女格差はゼロなので世界1位だったが、大学では男62に対して女54、つまり女性の比率が男性の0.87であり、これは98位だった。健康と生存では、平均寿命が世界1位であったが、出生時の男女比では89位だった。政治力では、女性国会議員数が105位、女性の大臣職では85位であり、過去50年で女性の国家元首の数はゼロである。ただしこの順位は41位であり、世界のほとんどの国では女性の国家元首は誕生していない。

男女の格差において、賃金格差などの労働条件を平等にするためには、法律によって厳格に定めることが最低条件として必要であろう。しかし法律をつくる国会議員の大多数が男で占められていれば、女性にとって不利な社会が継続されてしまう可能性が高い。そこで女性の国会議員の数は、社会での男女平等の象徴的な役割を表すともいえるかもしれない。

日本の国会議員で女性の占める割合は、2009年の衆議院選挙の結果で若干増えはしたが、それでも全体の11.3%である。国際組織である列国議会同盟の調査によると、この割合は世界147ヶ国中96位であり、先進国では断トツに最下位である。

また日本と社会構造が似ている韓国は、男女平等指数が115位であり、内訳は①113位、②109位、③80位、④104位となっている。内容としては、健康と生存が若干高いが残りは低迷しているという、日本と同じ傾向を示している。韓国の女性国会議員の比率も13.7%(87位)と、日本と非常に近い値である。

ちなみに女性国会議員の比率が世界でいちばん高いのは、アフリカのルワンダ(56.3%)、スウェーデン(46.4%)、南アフリカ(44.5%)、キューバ(43.2%)アイスランド(42.9%)である。

特筆すべきは、ネパールの33.2%、アフガニスタンの27.3%、イラクの25.5%、パキスタンの22.2%、中国の21.3%と、いずれの国も大きく日本を引き離している。パキスタンは日本の2倍、アフガニスタンでは3倍に近いということである。また男女平等指数で9位となったフィリピンはアジアで最貧国のひとつだが、幸福度は日本よりも平均的に若干高い。これは女性国会議員の比率が21%と、日本よりも圧倒的に多いこととは無関係ではないだろう。

ただし、日本社会での男女格差を判定する場合、統計上には出にくい部分を考慮しなければならない点もある。

確かに女性国会議員の数や、賃金格差などの統計的に表れる数値が重要なのは間違いない。しかし総合順位が、敬虔なイスラム諸国とあまり変わらないというのは、驚くべき事実でもある。イスラム教国では、いまだに女性の参政権が与えられてない国も多く、またサウジアラビアでは女性が車や自転車を運転することも禁止されている。さらに多くのイスラム教国では、女性は夫と親族以外に顔を見せることが禁止されているなど、女性の行動が厳しく制限されている。そして何よりも、イスラム教では一夫多妻制が認められている。そういった極端な男女格差のあるイスラム社会と日本が大差ないという結果なのだから、日本の男女格差は深刻な問題なのかもしれない。

ところが日本の多くの家庭では、毎月の給料を全額妻に渡し、夫はそこからお小遣いをもらうという習慣がある。これは実質的に女性が家庭での権力を持っていることと等しいかもしれない。ちなみにこのような習慣は、日本以外では存在しない。また家庭内での消費の決定権はほとんど妻が握っていることが多く、こういった日本女性の隠された権力は統計に出てこない。

しかしながら、女性が家庭内の消費の決定権を握っているという事実は、日本にかぎらず欧米その他、世界中の社会でも見られる傾向でもある。またイスラム教国であるパキスタン、イランは、男女平等指数がそれぞれ134ヶ国中132位と128位と最下層であるが、私がそれぞれの国で数ヶ月滞在する中で、現地で出会った女性たちは、意外にもそれほど不自由さを訴えていなかった。そのような統計から見えない現実を充分に考慮しても、10%程度しか女性の国会議員がいないという日本の現実は、かなり特異な状態といえる。民主主義社会において、法律をつくる役割を担う国会議員が、国民の約50%を占める女性の1割しかいないということは、法律が男性優位につくられてしまう懸念があるだろう。

もっともこれが兵士などの、男女での圧倒的な肉体的差が出てくる職業であれば話は別であるし、また必ずしも、女性議員がきっちりと50%になる必要はないかもしれない。しかしながら、国民を代表する立場の国会議員のうち、女性がほんの一割しか代弁できないようでは、女性にとってフェアな社会をつくることは難しいだろう。そして女性に平等な社会でなければ、個人や少数派に寛容であろうとする姿勢も希薄となることは、これまでのデータで明らかになっている。


なぜ日本では、男女平等が進まないのか


ワールド・バリュー・サーベイの調査で、次のような質問がある。
「仕事が少ない場合、男性のほうが女性より先に仕事につけるようにすべきだ」という項目に対して、同意できるかどうかを尋ねたものである。

これは、男女の労働する機会をどのように考えているかを見ることができる。日本は27.1%が「同意できる」と答え、17.9%が「同意できない」と回答した。残りの55%は「どちらでもない」と答えた。この結果から、ちょっと複雑な、日本独特の事情が見えてきた。

まず27.1%の「同意できる」という回答だが、これは56国中29位の多さであり、上位はイスラム教国が独占している。エジプトは89.1%、ヨルダンは88.2%、イラクは83.9%の人が、男性を優先することに「同意できる」と答えている。イスラム教国につづいて多いのはアジア各国で、インド、台湾、中国、ベトナムが、それぞれ51.4%、43.6%、42.3%、40.8%である。そして少ない国では、スウェーデンの2.1%、ノルウェーの6.5%、アメリカ合衆国の6.8%と、欧米諸国が独占している。

「同意できない」と回答した割合については、17.9%の日本は下から6番目であり、下位を占めるイスラム教国と肩を並べている。エジプトが4.3%、ヨルダンが7.9%、マレーシアが15.2%、イラクが16.1%である。そして欧米諸国は、約75%から90%以上が「同意できない」と答えている。

しかしここで注目すべきなのは、「どちらでもない」と答えた割合である。日本の55%は世界でも断トツに多く、その次は韓国の37.1%、マレーシアの35.7%、香港の34.3%と、アジア各国が独占している。

以上の結果から、わかることをまとめてみよう。

日本の職場で、男女の雇用差別をあからさまにやろうとは思う人は3割未満だが、大多数の人は、たとえ雇用差別があっても反対しようとは思わない。また積極的に男女差別に反対する人は、2割にも満たない。そして半分以上の人は、男女の雇用機会ということについて考えたことがないのか、もしくは意見を持っていない、つまり「わからない」ということだ。そこで、過去からつづけてきた男尊女卑をそのまま継続しているのである。これは、現在の日本社会を象徴している結果ともいえるのではないだろうか。

つまり日本には、極端に不寛容な人がそれほど多いわけではない。ここはイスラム教国とは大きく違う。イスラム教国では、8割以上が男女差別を当然と考えているからだ。しかし日本では、大部分の人が問題意識を持っていないために、男女差別があっても見過ごしているのである。つまり、男女差別に積極的に同意はしないが、消極的には同意していることになる。これは「長いものに巻かれろ」や「ことなかれ主義」といった集団主義の、非常に悪い側面ともいえるだろう。

社会を改革するには、自分の意見を積極的に主張することが絶対に不可欠である。たとえそれが「間違っているのではないか」という意識があったとしても、何も言わず、何も行動をしないのでは、昔からのやり方を肯定することになってしまう。別のいいかたをすると、日本人はフェアではないと何となく理解をしていても、みんながそれをつづけていれば、「長いものに巻かれろ」の精神で従ってしまうということだ。正しくないと心の底では思っていながらも、何もせずに傍観するのは、不正に荷担していることとあまり変わらない。したがって、イスラム教国のように政策として男尊女卑を推奨している国とは構造がまったく違うが、結果として、日本の男女平等指数がイスラム教国と肩を並べて、世界最低ランクに属することになっている。


なぜ日本人は、寛容度が低いのか


男女格差や同性結婚は国家の寛容さについての大きな指標になるが、その他にも寛容さを象徴することがいくつかある。

たとえば日本では、未婚の親から生まれた子供の権利や、在日外国人などのマイノリティーに対する寛容性は、欧州に比べてまだまだ低い。また近年議題とされている「夫婦別性」の件も同じだ。

「夫婦別性にすると家庭が崩壊する」と主張している人々がいるが、本当の論点にするべきことは、別性にしたい人、つまり、社会での少数派に対して、その選択肢を与えるかどうかということである。選択制なので、国民すべての夫婦が別性にしなければいけないという話ではない。つまりこれは、「違う生活スタイルを求める人に、どれだけ寛容になれるか」という、社会の寛容さが問われている。それに対して反対の立場をとる人たちは、「別性を名乗る夫婦は夫婦と認めない」という、個人の選択に不寛容な立場なのである。これは、個人の自由よりも集団に同化することが優先されるべきだという心情が背景にあると考えられる。

それでは、日本はなぜ個人に寛容ではないのだろうか。これは、日本の集団主義的思考に共通していると考えられる。社会心理学者H.C.トリアンディスは、著書『個人主義と集団主義』で、寛容性の高い個人主義社会と、厳格な集団主義社会との違いを、次のように説明している。

たとえば、寛容性の高いヨーロッパの国では、どのような状況であっても、人は他と異なる行動をとる自由が許される。もしもその行動がうまくいかなければ、別の方法を試せばいい。そして最終的にうまくいけば、社会はその行動を賞賛する。仮に10のうち8の失敗を重ねても、ふたつの成功を成し遂げたことが重要であり、裏を返せば、寛容性の高い社会では、8の失敗をする自由が認められているのである。

その一方で、日本のような比較的に寛容性の低い社会では、どのような状況であっても、人はひとつかふたつ程度の「常識的な」もしくは「正しい」ことをしなければならない。そして失敗をすると、間違いなく非難の対象となる。そこで人は、なるべく間違いを犯さないように、他人と同じ行動をとる傾向となってくる。これは言いかえると、寛容な社会が肯定的な結果に着目するのに対して、厳格な集団主義社会が、常に否定的な結果に着目するということである。したがって集団主義では、協調性という名目のもとに、みんなが同じ行動をとることを強要され、異質な者への寛容さは自動的に最小限にとどまってしまう。

日本において多くの少数派が、大多数と同じ市民権を得ていないことはすでに述べた。ただし女性は、厳密にいうと少数派ではない。しかし「女性」という続柄によって平等な扱いをされない社会は、寛容な社会とは正反対に位置する。そして寛容性の低い社会は、集団主義の傾向が非常に高い。

日本よりもさらに寛容度の低いイスラム教国については、特に注目すべき点がある。イスラムの教えに忠実な人生を歩むことは、イスラム教という集団に対して個を放棄することでもある。実際に「イスラム」とは、「神への服従」という意味であるからだ。そしてイスラム教の教典である『コーラン』の冒頭は、「この本を疑ってはならない」で始まっている。こうした批判的精神を受け入れない態度は、厳格で硬直的な集団主義の典型でもある。またイスラムの教えに背く者への非寛容性からも、個人の寛容や自由とは正反対の傾向が顕著になっている。英国の歴史学者ロバート・レーシーは著書『Inside the Kingdom』で、イスラム教国について次のように記している。

「もしも、ある国が『コーラン』を憲法として採用するならば、すべての戦争は聖戦でなければならず、国のために戦死した者は聖戦士となり、秘密警察が神の仕事を請け負うことになる」
(拙訳)

集団主義的傾向のより強いイスラム教国が、同性愛者を違法とし、男女平等指数の最下位を独占していることは偶然ではない。またそのすぐ後を、日本を始め東アジア諸国が追随していることも、集団主義という観点から見れば、これも一貫性のある結果だと考えることができる。そして過去には、集団主義を究極的な形へつくりあげようとした共産主義があった。その影響を色濃く残している東ヨーロッパは、男女の平等は進んでいるが、その他の個人の寛容性については低い。そしていずれの社会も、経済発展のレベルに比べて軒並みに幸福度が高くないという点で一致しているということも、共通した結果である。

そして西ヨーロッパでは、同姓結婚にかぎらず、社会の少数派のほとんどが市民権を得ている。さらに男女平等指数でも、世界で上位を独占している。こういった事実は、西ヨーロッパが世界で最も幸福度が高い大きな理由のひとつであることは間違いないだろう。

集団主義とは、個人ではなく集団の利益を優先するものである。したがって、集団主義の思想があるかぎり、少数派に寛容な社会は決して成り立たないだろう。そもそも集団主義という発想自体が、価値の多様化を認めていないからである。

日本が個人の幸福度を上げるには、個人にもっと寛容な社会になる必要がある。そして個人に寛容な社会をつくるためには、集団主義という呪縛から逃れることが、最低限として必要な条件であろう。



2010年8月18日水曜日

幸福度について: ⑥経済と幸福度

1950年代、各種のメディアは未来の社会をこう予測していた。

「現在のような生産性の向上が将来もつづくならば、2000年には平均労働時間が週16時間になるだろう。人々は余暇を過ごす時間が大幅に増え、生活の質は大幅に向上するであろう」

ちなみに週16時間とは、週休2日で1日3時間程度の労働である。

2000年になり、当時の予想はまったく的外れであったことが証明された。現在先進各国の平均労働時間は週40~45時間程度であり、労働者保護の精神が強いフランスでも週35時間労働である。予想どおりに生産性は飛躍的に向上したが、同時に人々はより熱心に働くようになった。

幸福度について、衝撃的な調査結果がある。ワールド・データベース・オブ・ハピネスによると、日本人の幸福度は、調査が始まった1958年以来ほとんど変化していない。つまり1980年代後半のバブル経済絶頂期の日本人が世界を買いあさっていた時代、株価や地価の高騰で多くの人々の資産価値が上昇し家計の収入も増え消費も拡大し、失業率も2%前後と非常に低く、貧富の格差も世界で2番目に小さかった、そんな時代でも、日本人の幸福度は現在と変わらなかったのである。

もちろん、近年の大きな社会問題となっている年金や格差のことなど、当時は話題にもあがっていない。ちなみに1958年から日本のひとり当たりGDP(国内総生産)は、約6倍になっている。しかし幸福度は、ここ50年以上も頭打ちなのである。この事実は、この先いくら経済発展をしても、日本人の幸福度が変わらないことを示唆している。

アメリカでも1947年から2006年まで所得が7倍に伸びたのに幸福度は、ほぼ横ばいである。ヨーロッパでは1973年の調査以来、所得が約2.5倍に増えたのに対して、幸福度はベルギーとポルトガルが下降しているが、平均では若干上昇している程度である。

ポーランドの社会学者ジグモンド・バウマンは、物質的な豊かさと幸福の関係について、一定水準を超えるとGDPと幸福度の間に関係が見られなくなると述べている。

実際に世界全体を見ると、年間所得が1万ドル(約100万円)程度のレベルに達するまでは、所得の上昇と幸福度の上昇が相関している。しかしそれを超えると、所得の伸びと幸福度はほぼ無関係となっている。

発展途上国にとって経済発展は、国民の富を増やすだけでなく幸福度も増やすのだから、国家の最重要課題となることは理にかなっている。しかし先進国にとって、経済の繁栄が直接に幸福度の上昇へと結びつかない。

ただし、失業率に関しては無視できない事実がある。失業をすることは、一般的に個人の幸福度を下げる。

社会福祉の充実しているヨーロッパでも、長期の失業率が高いポルトガル、ギリシャ、フランス、イタリアは、幸福度が他のヨーロッパ諸国と比べて低い傾向がある。これらの国々は、ギリシャを除くとカトリック教徒が大多数をしめるラテン国家である。

その一方で、同じカトリック教徒が大部分をしめる中南米のラテンアメリカでは、ほとんどの出業率が10%前後と高く、経済的にも平均所得が1万ドルに満たない国がほとんどであるのにもかかわらず、幸福度は比較的に高い。ラテンアメリカだけは、例外のようである。

コロンビアやブラジルの失業率はそれぞれ12%と8%であり、年間平均所得は共に1万ドルに満たない。しかし幸福度においては、コロンビアはワールド・バリュー・サーベイでは97国中3位、ワールド・データベース・オブ・ハピネスでは、145国中4位、レスター大学の調査では、178国中32位である。またブラジルの幸福度は、ワールド・バリュー・サーベイで97国中29位、ワールド・データベース・オブ・ハピネスでは145国中16位、レスター大学の調査では、178国中81位となっている。

つまりコロンビアやブラジルは失業率が高く、所得もそれほど高くないが、幸福度は日本よりも断然高く、世界的に見ても上位に位置している。

同じレベルの年間平均所得であるコスタリカの幸福度はワールド・バリュー・サーベイで145国中15位、レスター大学の調査では178国中16位と欧米諸国と肩を並べているが、失業率は5.6%と比較的低い。そこで、ブラジルやコロンビアの失業率が現在よりも低下すれば、幸福度がさらに上昇するのかもしれない。

長年景気後退している日本の失業率は、2010年7月現在で5.3%である。これは、世界的に見ても低いレベルにある。したがって、日本の幸福度が低い理由は、失業率の問題ではない。前述したが、バブル期の失業率は2%を切っていたのにもかかわらず、日本の幸福度は現在と変わっていないからだ。

日本よりも高失業率で貧しい国よりも、日本の幸福度は低い。そこで日本の失業率が悪化すれば、さらに日本人の幸福度が下がる可能性はある。しかし失業率を低く保つために経済発展しつづけるだけでは、今後も日本人の幸福度が上がらない可能性は非常に高いということだ。

では、どうすれば日本の幸福度が上がるのか。
それは、次の投稿からいろいろと検討していきたい。

2010年8月13日金曜日

幸福度について: ⑤地方分権と幸福度

幸福度で常に世界の上位にいる永世中立国スイスの、国内における幸福度調査をみると、非常に興味深い結果がでてきた。

スイスの経済学者ブルーノ・S・フライとアロイス・スタッツァーによると、各カントン(州)の独立性が高ければ高いほど、つまり地方自治の度合いが高いカントンほど、住民の幸福度が高いことがわかった。連邦制を採用しているスイスでは、連邦議会より独立して各カントンが決定できる範囲に違いがあるからだ。

これは、住民自らの意見が自分のコミュニティーに直接反映されている度合いが高まるほど、個人の幸福度も高くなるともいえる。

地方自治の度合いが高いことは、選挙での一票の重要さが高くなる。それは、必然的に住民の政治意識を高めるだろう。住民が地域の政治に積極的に参加し、地元を自分たちでつくりあげているという意識が高まれば、コミュニティーでの連帯意識も高まる。たとえ何か悪い状況が発生しても、自分たちで解決手段を探していくので、最終的には住民の納得する地域をつくりあげることができるのだろう。

人口750万人のスイスでは、15,000人程度のカントン(州)から、最大124万人(チューリッヒ州)のカントンまで、比較的小規模の26の自治体がスイスという連邦国家をつくっている。公用語はドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4ヶ国語であり、各カントンには独自の議会、憲法、そして裁判所が設置され、国民が直接国政に対して投票する直接民主制を採用している。

日本でたとえると、愛知県の人口が740万人なので、愛知県が独立してさらに連邦制の政府をつくり、それを26の州に分け、それぞれの州に独自の憲法や税金制度をつくらせる、といった感じである。

スイスでは、公用語である4ヶ国各言語の地域によって、生活にも違った特色が見られる。首都ベルンや最大都市のチューリッヒを持つドイツ語圏は、人口の64%を占めており、実質上のスイスを象徴する大きな役割を担っている。

そして国際都市ジュネーブのあるフランス語圏は人口の19%、イタリア語圏は8%、ロマンシュ語圏は0.5%となっている。フランス語圏やイタリア語圏に住む人たちにとって、テレビや雑誌などのメディアはフランスやイタリアのものしか存在しない。あるのは地方新聞ぐらいである。そこで、たとえばジュネーブに住むスイス人は、フランスのニュースやドラマ、そして映画などを見て育つことになる。

そういった言語の違いは、同じスイス人でも多少の文化的な違いが出てくる。しかしながら、前述したフライとスタッツアーの調査では、異なった言語圏と、幸福度との相関関係は特に見られなかった。

しかしもうひとつ、興味深い結果が出てきた。各カントンに住む外国人の幸福度だ。

スイス国籍を持たない外国人居住者と一時労働者は、スイスの人口の22%にのぼる。そして外国人の幸福度は、スイス人と比べて低いという結果が出た。特筆すべき点は、どこのカントンでも、外国人の幸福度が一貫して低いことである。

北欧諸国や一部のヨーロッパ諸国と違い、スイスでは外国人に地方参政権がない。そこで彼らにとって、地方自治の度合いが高かろうが、まったく関係がない。したがって、地域のコミュニティーに対する帰属意識も希薄であると考えられる。


さて、地方分権が高い幸福度に貢献することは、個人の人生にも共通するのだろうか。つまり、個人でも自立すると、幸福度はあがるのだろうか。

離婚をする前と後で、日本の女性の幸福度がどう変化するかを調べたものがある。公益財団法人の家計経済研究所によると、離婚後の女性ひとり当たりの所得は、年収ベースで平均252万円から165万円と、平均で36.5%減少していた。

これだけ所得が下がるのであるから、離婚後の生活満足度も下がるかと予想する人も多かもしれない。しかし現実は、逆の結果が出ている。離婚後の幸福度は、22%も上昇していた。

たとえ所得が減っても、自分で自由に使えるお金と時間が増えたために、幸福度が増えたのである。この結果は、お金と自由を比べた時、自由を与えられたほうが人は幸せになるという象徴的な例なのかもしれない。

また別の統計で、自主性と幸福度との相関関係は、所得と幸福度との相関よりも20倍あるという結果も出ている。社会的地位や所得に関係なく、自分で自分の生活の管理ができる機会がある人のほうが、生活満足度が高いということである。

これらの事実は、スイスでの地方分権の話と一致している。たとえ結果がうまくいかなくても、自分で選択した結果なのであれば、本人は納得できるだろう。個人が好きなことを追求すれば、どんな職業についても、(その職業が好きだという前提で)自分の職業を誇りに思うことができるはずである。

その反対として、自分の人生が他人や社会の意向に従おうと常に思いながら生きる場合、何かうまくいかないと、他人や社会を責める誘惑に駆られるだろう。そうやって責任転嫁することは、社会に対しても、また自分に対しても、欲求不満の原因となってくる。


最近では日本でも、道州制への移行や、地方分権という議論は積極的にされ始めている。さて、日本でも地方分権をすすめることで、幸福度をあげることができるのだろうか。

そもそも日本では、個人主義としての「個」というものが、国民ひとりひとりに確立されていない。そして多くの地方は、いろいろな意味で国への依存体質が根強く残っている。

そこでまず、個人のレベルから集団への依存体質を改善しないかぎり、制度として先に地方を分権したところで、スムーズに事は運ばないだろう。地方分権を導入し、後に地方が疲弊した場合はどうなるか。集団への依存体質が抜けない人々は、おそらく地方分権を実行した国の責任だと主張するだろう。

最初から自立する意志のない人々を無理やりに自立させるように切り捨てても、不満がつのるだけで、建設的な解決にはならない。つまり個々の住民が、個人として自立した姿勢を持ち、地域が自立するという意識が広く浸透しなければ、地方分権はうまく機能しないだろう。

そして地方分権の結果として、地域によって大きな格差が生まれることは、容易に予想がつく。ただし、地方によって差がでることは、必ずしも悪くはないだろう。差があるならば、そこから各地方独自の生き方を模索することによって、地域の個性化につながるからだ。もちろん、そこには努力が必要だが。

しかし地元住民が参加して努力することで地域への愛着も生まれ、またコミュニティー意識も高まってくるだろう。たとえ経済格差が生まれても、結果として幸福度が上がれば問題ないだろう。ただし、国は最低限の保証としてのセイフティーネットはつくるべきだろう。

画一的な経済発展ではなく、地域の住民がいかに自分たちの満足できる地域をつくれるかを模索することこそが大切なのではないだろうか。

2010年8月9日月曜日

幸福度について: ④宗教と幸福度

宗教は、人を幸福にするのだろうか。

心理学者マーティン・セリグマン教授によると、個人にたずねた場合、宗教を信仰している人のほうが、信仰心のない人よりも幸福度が高いという。しかしながら、この結果をそのまま社会の幸福度に当てはめることはできない。国の幸福度と信仰心の関係を見ると、もうすこし複雑な結果が出ている。

敬虔なカトリック教徒を多く抱えるラテンアメリカ諸国の幸福度は比較的に高い。それは同程度の経済発展の国と比べても、ずば抜けて高い幸福度を示している。ラテンアメリカの事情については、また別の機会に詳しく考察したいので、ここでは触り程度にしておくが、高い信仰心がラテンアメリカの高い幸福度に何らかの貢献をしていることは間違いないだろう。

しかしながら、多くの敬虔なカトリック信者を抱えるポーランドの幸福度は、他の東ヨーロッパの例にもれず、低い幸福度を示しているという事実もある。つまり、信仰心よりも社会体制が幸福度に与える影響が強いということだろう。

そして敬虔なイスラム教徒を抱える国々では、どの国でもあまり幸福度が高くない。その中でも特に注目したいのが、中東の資源国である。レスター大学の幸福度調査(178国)では、カタールは48位、クウェートは37位、サウジアラビアは28位、UAE(アラブ首長国連邦)は19位であった。そしてワールド・データベース・オブ・ハピネス(146国)では、カタールが37位、クウェートは45位、サウジアラビアは50位、UAE(アラブ首長国連邦)は21位だった。

2009年のひとりあたりGDP(購買力平価でベース)を見てみると、カタールは約750万円と、断トツで世界一の金持ち国家である。これはスイスやアメリカの約2倍、そして日本の約2.5倍の額である。カタールは世界最大の液化天然ガス生産・輸出国であり、サウジアラビアは世界一の原油埋蔵量がある。こういった中東の資源国では、非常に手厚い社会保障が完備されている。たとえば病院や学校がすべて無料であるばかりか、最近では住宅までも無料で支給している国さえある。そこで幸福度もある程度の上位に位置してはいるのだが、北西ヨーロッパのレベルには遠く及んでいない。

ここで、少し想像してもらいたい。世界一のお金持ち国家であるだけでなく、たとえ働かなくても、衣・食・住には一切不自由しない国だ。もちろん働いてもいいし、いずれにせよ将来の心配はまったく必要ない。そんな国ならば、世界一の幸福な国家であっても不思議ではないだろう。しかしそれをすべて実現しているカタールでは、幸福度がそれほど高くない。これは衝撃的な事実でもあるといえる。少なくともカタールでは、強い信仰心が人々を幸福にしているという傾向は見られない。かえって厳格なイスラムの戒律が人々の自由を奪うことで、幸福度が低くなっているのではないかと考えることもできる。

アメリカに本部をおくNGOフリーダムハウスは、世界192ヶ国の「政治的自由」と「市民的自由」というふたつの指標から「世界の自由度」を発表している。政治的自由度とは、どれだけ自由に政治的活動ができるかであり、市民的自由度とは、表現や信仰などの個人の自由を基準にしている。それぞれが1から7までの数字で表され、「1(政治的自由)-1(市民的自由)」が最も自由度が高いことを示す。

カタールの政治的自由度は6、市民的自由度は5と、世界でも最低レベルの自由度である。そしてクウェート、UAE、サウジアラビアと、いずれの国も政治的・市民的自由度は、世界最低レベルである。イスラム教は、宗教として必ずしも不寛容な宗教とは言い切れないかもしれない。イスラム教徒の教典であるコーランの解釈によって、イスラムの教えも変わってくるからだ。しかし実際にイスラム教によって統治されている国は、ほとんどすべてが政治的および市民的自由度について世界最低を示しているという事実がある。

では、資源のないイスラム教国はどうだろう。アフガニスタン、バングラデシュ、パキスタン、イエメン、エジプトと、いずれも敬虔なイスラム教徒であり、すべてが発展途上国である。そして幸福度については、アフリカ諸国と並んで世界最下位のグループに所属する国がほとんどである。

ちなみにアフリカ諸国の多くはキリスト教徒かイスラム教徒であるが、いずれも幸福度は世界最低のレベルである。この事実は、ひとりあたりのGDPが100万円以下のコロンビアやグアテマラをはじめとするラテンアメリカが、非常に高い幸福度を示していることとは対照的である。

国家という大きな母集団となると、個人の宗教心よりもその国の政治体制や文化という国の仕組みがより大きな影響を与えていることになる。特に政治的、そして市民的な自由度については、幸福度とは逆相関の関係を示している。したがって「宗教を普及すれば、国民が幸福になる」ということは決して起きていない。それは多くの宗教が、個人の自由を制限する傾向があるからでもある。世界で常に上位を独占している北西ヨーロッパの国々では、非常に信仰心が低いという事実も付け加えておこう。


宗教とは基本的に、科学的な立証がまだ及んでいない領域の答えを明確に与えてくれる。たとえば宇宙の起源について、約137億年前にビッグバンといわれる爆発から始まったとされる「ビッグバン理論」が主流であり、それを立証する観測結果も出ている。しかしそれ以前のことは、現在の科学でもほとんどわかっていない。

そこで多くの宗教は「神」という言葉を使うことで、その分からない部分を埋めてくれる。最近では、「神」の代わりに「インテリジェント・デザイン」とよんでいる団体もあるが、実質的には「神」と同じである。実際のところは、「エックス」という謎を「神」という魔法の言葉で置き換えているだけである。つまり、この世の中でわからないことがあれば、それをすべて「神」という便利な言葉を使えば、安易に結論付けることができるのである。

しかしながら、人類の科学が発展してきた理由は、そういった謎を謎で終わらせることなく、容易に「神」として結論付けるのでもなく、「なぜなのか?」と疑問を抱くことから始まっている。つまり現在まだ解明されていない謎があるからこそ、それを解明しようとするのが科学なのであり、現在解明できないことは科学の限界ではない。そこで安易に答えを提供してしまう宗教は、「なぜ」という疑問を止めてしまうことにもつながってくる。

疑問を持たないということは、思考が停止することと同じである。つまり宗教とは、最終的に思考を停止させてしまう役割を持っている。

こうした役割を持つ「神」の存在は、権力者にとって非常に便利であろう。だからこそ、古今東西、政治的道具として宗教が利用されてきた。そして個人にとっても、安易に明確な答えを与えてくれるという意味で、思考の怠慢という事実にもなる。

発展途上国において、充分な教育を国民全体へ普及することが困難な場合、宗教が人々の心を癒やし、道徳観を高めることで秩序のある社会をつくることはできるかもしれない。しかし経済的に豊かになり、教育レベルが上昇してくると、「なぜ」という疑問を追求する姿勢を殺してしまう宗教は、不寛容等の社会的軋轢(あつれき)の原因となっていくという側面を持っている。

ただし、それぞれの国によって事情が異なるため、宗教がどのように国家に関わっていくべきかという明確な基準を設けることは無意味である。しかしながら、非宗教的で合理的な北西ヨーロッパが、どの調査結果を見ても世界でいちばん幸福な国家であるという事実は、念頭におく必要があるだろう。

2010年8月5日木曜日

幸福度について: ③自殺と幸福度


自殺や自殺未遂をする人は、不幸な可能性が非常に高いだろう。自殺者や自殺未遂者のほとんどが、うつ病であるという説もある。そこで直感的に、自殺率と幸福度には相関関係があると感じるかもしれない。しかし実際に統計結果を比べてみると、自殺率と幸福度には相関が見られる地域と、まったくそうでない地域があり、より複雑な関係となっている。

自殺者が世界でいちばん多い国は、リトアニア、ベラルーシ、ロシアといった東ヨーロッパ諸国であり、10万人中それぞれ38.6人、35.1人、32.2人と、他国を大きく上回っている。10万人中15人以上の自殺者がいる国は世界で26ヶ国あるが、東ヨーロッパ諸国が半分の13ヶ国を占めている。その他で自殺率が高い国は、カザフスタン(25.9人)、日本(23.7人)、ガイアナ(22.9人)、韓国(21.9人)、ベルギー(21.1人)、フィンランド(20.1人)、フランス(17.6人)である。

自殺率の高い国は、ほとんどが旧共産主義諸国と東アジアだ。両者に共通する点をひとつあげると、「権威主義」もしくは「集団主義」だろう。共産主義国家とは、もともと集団主義を究極的な形にしようとした思想である。マルクスが理想としていた国家像と、実際に旧共産主義圏の政治体制には多くの部分で違いはある。しかし現実として、旧共産主義諸国では政府が個人の細かい行動まで制約していた。別のいいかたをすると、個人の自由が極力制限される社会である。そこで現在は民主化された東ヨーロッパの国々でも、当時の権威的な風潮が残っていると考えられる。

実際に私が東ヨーロッパ諸国を訪問したときも、非常に官僚的な雰囲気を肌で感じた。そして日本や韓国という集団主義的な社会も、規則や暗黙のルールが常に強調され、必然的に個人の多くの行動をしばっている。そこで個人主義の欧米諸国とくらべると、個人の自由度は非常に少ない。
しかしながら、個人への自由度が低いと自殺率が高いのかというと、必ずしもそうではない。世界でも非常に抑圧的で寛容性の低いイスラム教国では、少なくとも統計上では自殺がほとんど存在しない。それは、自殺が宗教の影響を強く受けることを示唆している。

イスラム教やキリスト教では、自殺は禁止されている。自殺者は地獄に堕ちると教えられているだけでなく、自殺が犯罪とされている国もある。そこで人々の生活に宗教の影響が非常に強いイスラム教圏では、イラン、シリアのように自殺者の数が100万人に1人か2人と極端に少なく、またエジプトやヨルダンのように、統計上は自殺者がゼロの国もある。またキリスト教でも、より戒律の厳しいカトリックのほうが、プロテスタントよりも自殺率が少ない。特に敬虔なカトリック教徒が多いラテンアメリカでは、ハイチやホンジュラスのように自殺者がゼロの国から、コロンビア、ブラジル、メキシコ、ベネズエラといった国々は、10万人中5人前後である。これは、日本のわずか4分の1である。

日本では、自殺することで道義的責任を果たすという風潮がいまだに根強く残っている。これは武士の時代から、切腹することで名誉を保つという習慣から受け継がれてきたからだろう。昭和に入って起こった第二次世界大戦中でも、日本軍兵士や民間人は、捕虜になるよりも自決することを選んだ人々までいる。また近年の経済不況によって、自殺率は10万人中23.7人と高くなってきているが、バブル期の80年代でも、10万人中20人前後と、比較的高いことに変わりはない。それは、経済的理由で自殺するというケースだけではないことを物語っている。


たとえば日本では、倒産した会社の社長が、責任をとる形で自殺するというケースがある。また、凶悪犯罪の加害者の家族が自殺に追い込まれるといったケースもある。そして、逮捕された政治家の秘書が自殺をするというケースもある。これらはすべて、責任を「死んでお詫(わ)びする」といった、日本の社会的風潮だ。そして多くの場合、非難される「責任」とは、家族や同じ集団といった個人以外の「連帯責任」という考えが見られる。法律では責任を問われないが、犯罪加害者の家族が非難されるといった社会のプレッシャーによって、道義的な連帯責任を追及される。こういった考え方は、個人は独立した人格ではなく、あくまで集団の一部としての存在であり、個人の命よりも集団全体の利益を優先させるという発想が根底にあるからだろう。もちろん多くの自殺者は、もっと個人的な絶望感から自殺をするのかもしれない。しかし日本の自殺者数が、他の先進諸国と比べて多いということは、多くの自殺者は、集団主義の犠牲者ともいえるのかもしれない。

さて、それでは貧困と自殺には何らかの関係があるのだろうか。世界で最も貧しい国々を抱えるアフリカでは、残念ながら、いまのところ自殺率のデータが存在しない。そこで最貧国での自殺の実態はわからない。しかしながら、自殺率の高い国には発展途上国がほとんど見あたらない。10万人あたりの自殺者が10人を超える国は世界に47ヶ国あるが、その内ひとり当たりGDPが100万円を下回る国は、わずか6ヶ国しかない。つまり、自殺の多い国の圧倒的大多数は、ひとりあたりGDPが100万円以上ということになる。さらに、自殺の統計がある最貧国を見てみると、ハイチやタジキスタンでは自殺率がほぼゼロである。そこで、貧困と自殺には相関が見られないと推測できる。そして、世界で最も不幸なアフリカ諸国と自殺率との相関関係も見られないだろう。

そもそも人類がこれまで生き残ってきた理由は、どのような逆境でも生き残ろうとする強い意志があったからである。したがって、たとえ餓死することはあっても、餓死しそうだから自殺をするというケースはあまりないのかもしれない。自殺はむしろ、未来に対する絶望からくる。衣食住という生き残るための最低条件を満たされてしまった後は、生きるための目標を失う人が出てくるのだろう。そういう意味では、自殺はうつ病と同じように現代的な現象なのかもしれない。

最後にまとめをしてみよう。自殺率の高い国は、幸福度が低いだけでなく、個人に対しての寛容度も低い。ただし自殺率の低い国は、必ずしも幸福度が高くない。自殺率が低く、幸福度の低い国は、戒律の厳しい宗教によって自殺が禁じられている社会であり、個人への寛容度も低い国である。ただし、ラテンアメリカのように信仰心が強く自殺率が低いが、個人への寛容度は比較的高く、幸福度も非常に高い国もある。

自殺率と幸福度には、複雑な関係が潜んでいる。しかし、ひとつだけ言えることがある。自殺率が低くても幸福な国とは限らないが、自殺率が高い国に、幸福な国はないということだ。そして日本の自殺率は先進国で一番多いということを、もういちど最後に付け加えておこう。

2010年7月30日金曜日

幸福度について: ②出生率と幸福度




ひとりの女性が一生のうちに産む子供の平均人数を「合計特殊出生率」といい、通常は「出生率」とよばれる。そして出生率が2.0以下になると、その国の人口を維持することはできないので、人口は縮小していくことになる。

幸福度の調査をみてみると、幸福な国の出生率は一般的に高い傾向がある。そして出生率と密接に関わっているのが、女性にとってどれだけ平等な社会であるかである。

男女の平等を計る指標として、男女平等指数(Global Gender Gap Index) がある。これは世界中から政治、実業界、学界の著名な指導者たちがスイスのダボスで一堂に会する、世界経済フォーラムが発表している指標だ。

出生率が低い国として、イタリア(1.3)、ギリシャ(1.36)、日本(1.37)、韓国(1.2)、シンガポール(1.08)があげられるが、それらの国は男女平等指数が、おしなべて低い。つまり男尊女卑の傾向が高いということだ。また東ヨーロッパ諸国の出生率も1.2から1.4と世界的に見て低い傾向がある。男女平等指数では、日本やアジア諸国ほど低くはないが、西ヨーロッパには遠く及ばない。

先進諸国の中では、男女平等の度合いが高い国は比較的に出生率も高く、国民の幸福度も高い。イタリアやギリシャは、比較的に男尊女卑の傾向が強いので出生率が低く、また幸福度も西ヨーロッパのなかでは最低である。

先進国で出生率が高い国は、出産や育児に関して女性が働きやすいように優遇されている傾向がある。たとえば、フランスやドイツをはじめとする多くのヨーロッパ諸国は、父親もしくは母親が育児のために職場を離れても、ひとりの子供につき最高で3年間まで同じ職場が保証されている。その間の給料は出ないが、同じ職場、もしくは同等の勤務条件に復帰できる保証があることは、子供を産むための大きな後押しとなっている。

こういった女性を優遇する動きは、政府が積極的に政策としてやっていかなければ、実現するものではないだろう。したがって、女性優遇政策をおろそかにしてきた国々は、必然的に出生率が下がるという結果になっている。ちなみに日本は、男女平等指数が世界130国中98位と、世界でも最下位グループの一員となっている。

その一方で、出生率が高いからといって、幸福な国であるとはかぎらない。特に先進諸国以外では、出生率の状況は若干違っている。ラテンアメリカ、アフリカ、アラブ諸国では、男女平等指数のランキングが低く、特にアラブ諸国とアフリカは、世界最低の男女平等指数を示している。しかしながら、出生率は先進諸国よりもおしなべて高い。

アフリカのマリは7.3、ニジェールは7.2、そして中東のイエメンは6.4である。したがって発展途上国とアラブ諸国においては、男女平等指数と出生率の相関関係は成り立たない。ただしラテンアメリカは、欧米諸国に比べると男尊女卑の傾向があるが、日本よりは男女平等の社会である。ちなみに日本よりも男女平等指数が低いのは、アジアでは韓国、インド、ネパールであり、あとはアラブとアフリカ諸国のみである。順位は、韓国が108位、インドが113位、ネパールが120位。そしてインドの出生率は2.7、ネパールは3.9である。

出生率が高い国は、必ずしも幸福な国とはいえない。しかし幸福度が高い国で、出生率が低い国はない。そして出生率が低い国は、あまり幸福な国ではない。幸福な国だから出生率が高いのか、出生率が高いから幸福な国になるのかという因果関係は、これだけのデータではわからない。しかし先進国にとって出生率をあげることは、幸福度が上昇する可能性が非常に高い。それは人口の半分を占める女性が住みやすい社会へと変革することなので、国民全体の幸福度への効果も大きいだろう。


男女平等指数: 
出生率: 

2010年7月28日水曜日

幸福度について: ①太陽と幸福度

ニューカレドニアやハワイなどの南国の島に住む人々は、極寒のシベリアやアラスカに住む人々よりも幸せそうなイメージがある。では実際に、気候と幸福度に何らかの相関関係はあるのだろうか。

南国の島で日照度の多い南国、たとえばフィジー、タヒチ、バハマ等の島国は、いくつかの幸福度調査の結果を見るかぎり、世界でも中の上ぐらいの幸福度だ。これは日本よりは少し高い程度である。また赤道付近にある国として、南米のエクアドル、インドネシア、シンガポール、そして中央アフリカをはじめとする多くのアフリカ諸国があるが、エクアドルは他のラテンアメリカ諸国と比べても幸福度はむしろ低いほうであり、インドネシアとシンガポールも特別に幸福度が高いわけではない。そしてアフリカ諸国の幸福度は、世界でいちばん低い。したがって、赤道付近の国々と幸福度には関連性は見られない。

幸福度の調査でいつも上位を占めている国々は、むしろ北部の日照度が少ない位置にある国が多い。常にトップの北欧諸国では、極夜という日照時間がゼロの日が冬に訪れる。その反対に夏には白夜が訪れ、一日中日が沈まない。そこで北欧の人々は、夏期は昼夜を問わずに街は人であふれるが、冬期になると心持ち表情も暗くなり、外出も控える傾向にある。そしてアイスランドに至っては、国土の一部が北極圏に入る寒冷地である。それにもかかわらず、幸福度では世界でトップクラスに入っている。また、アメリカ大陸でもっとも北にあるカナダの幸福度も非常に高い。

ただし、寒い地域の幸福度が高いわけではない。ロシアの幸福度は世界的にみても非常に低く、また緯度的には北欧諸国に近いバルト三国の幸福度も非常に低い。

南国でも極寒でもなく、穏やかな気候の国には幸福な国が多いという説もある。しかし、どの程度を「穏やかな気候」と判定するかは難しく、また例外が沢山あるので、やはり気候と幸福の関連性を見つけることは困難である。

結論として、各国の気候と幸福度には何の相関関係も見れないということである。

どんなに厳しい気候条件でも、人類は適応してしまうという特徴があるためなのかもしれない。人類がその場所で定住して社会をつくるという時点で、人々の幸福度は、その社会がどのような社会であるのかが重要となってくるのだろう。


幸福度調査:
http://worlddatabaseofhappiness.eur.nl/
http://www.happyplanetindex.org/explore/global/life-sat.html
http://www.worldvaluessurvey.org/
http://en.wikipedia.org/wiki/Satisfaction_with_Life_Index

2010年7月24日土曜日

ブータンは本当に幸福な国か









1972年、ヒマラヤ山脈南麓の小国ブータンでは、当時16歳のシグミ・シンゲ・ワンチェクが第4代国王に即位した。そしてまもなく彼は、ブータンの将来について「GNP(国民総生産:Gross National Product)ではなく、GNH:Gross National Happiness(国民総幸福量)を国家の目標にするべき」と発表した。


しかしこの事実は、1986年に英国フィナンシャル・タイムスのマイケル・エリオット記者が報道するまで、世界にほとんど知られていなかった。


近年では、GNHという概念は徐々に世界に浸透しつつある。最近はイギリスやフランスの政府でも、国民の幸福度について真剣に政治課題として議論されている。また日本の鳩山前首相も「国民の幸福実現に向けて、幸福度を調査する」と発表した。そして当のブータンは、いまや幸福な国家の象徴ともなりつつある。しかし、果たして実際にブータンの国民の幸福度は高いのだろうか。

レスター大学の調査では、ブータンは178国中12位であり、幸福度の調査で常に上位を占めている北西ヨーロッパ諸国と肩を並べている。ブータンの一人当たりGDP(購買力平価換算)は約5,000ドル(約45万円)であり、名目の一人当たりGDPでは、わずか1,300ドル(約12万円)でしかない。これは北西ヨーロッパ諸国の10分の一程度であることを考えると、ブータンの幸福度は例外的に高いことがわかる。まさしく「お金はないが、幸せがいっぱい」という、絵に描いたような国家が実現しているのである。


しかしながら、レスター大学以外でも幸福度の調査はたくさんあるのだが、ブータンの幸福度については他の資料がいまのところ存在しない。そこで、このひとつしかない結果については、もうすこし注意深く見る必要があるだろう。






ブータンの人口は、わずか70万人にも満たない。これは日本の都道府県で2番目に人口が少ない島根県や、東京23区では練馬区とほぼ同じ数である。また、ブータンの人口密度は18.1人/km²であり、島根県の114人/km² や練馬区の14,820人/ km²に比べると、極端に低い。言いかえると、ブータンの人口密度は、島根県の約6分の1、そして練馬区のなんと800分の1である。これはブータンの人口の80%以上が農家であることが関係している。

ブータンは周囲をヒマラヤ山脈に囲まれているため、国全体が厚い雲によって隠されてしまうことがよくある。私がブータンを訪れた時に乗った飛行機は、天候の悪化で予定どおり到着できず、国境を越えたインド国内の飛行場で臨時着陸して、天候の回復を待つことになった。しかし数時間待っても天候が回復しなかったため、結局私の飛行機は出発地のコルカタへもどり、一晩を過ごすこととなった。翌日は無事にブータンへ到着することができたのだが、近くに座っていたインド人は「今回はラッキーだ」と、着陸前に手をたたいて喜んでいた。話をよく聞くと、前回彼がブータンを訪れた時、なんと7日間もつづけて着陸できなかったらしい。

ブータンに入国することは、天候の他にも障害がある。普通の観光客がブータンに入国することが許されたのは、1974年以後のことだ。しかし政府は、弱小国であるブータンの文化を守るために、毎年入国できる人数を制限してきた。近年では人数制限はなくなったが、事前に政府直属の代理店を通して日程をすべて決める必要があり、さらに一泊につき最低200ドルを支払わなければならない。この金額には宿泊代、食事代、交通費、そしてガイド代も含まれるが、個人で自由に行動することは制限されている。そのためにブータンを訪れる外国人は、ほとんどが金銭的にゆとりのある高齢者の団体で、若いバックパッカーなどはほとんどいない。


しかしそれは、政府の目論見どおりなのであろう。世界中から若者が集まってくるネパールのカトマンズやポカラでは、現地の若者たちの西洋化が、急激な早さで進んでいる。そのような状況を目の当たりにしていたからこそ、ブータンはあえて鎖国のような形をとることで、自国の文化を守ろうとしているのである。


ブータンでは母国語としてゾンカ語が話されているが、学校の授業などはすべて英語で行われる。英語は事実上の公用語である。そのため、私が出会ったブータンの人々は、みんな流ちょうな英語を話していた。自国の文化を守るために外国人旅行者の数を制限しているほどの国が、学校教育をすべて外国語にしていることは、一見すると矛盾しているようにも思える。しかし英語が公用語となることで、国際的な視点が身につくのは間違いない。特筆すべき点は、若い人々が驚くほどしっかりと自国の文化とその政策についてしっかりとした意見を持っていることだった。そして政府は、優秀な学生を留学生として世界各国の大学に派遣している。海外に留学した学生は、ヒマラヤの小国をよりよい社会にするため、90%がブータンにもどり、祖国のために働いている。

これは幕末から明治初期にかけての日本に似ている。海外に出た日本人留学生たちが、開国後の日本の発展に大きく貢献したことはいうまでもない。

ブータンはひとりあたりの実質年間GDPが12万円程度と、数字上では発展途上国に属する。しかしながら驚くべきことに、教育と医療が無料というヨーロッパ並みの社会福祉が完備している。これはブータンが山岳地帯という地理的条件を利用して水力発電を活発に行い、電力をインドに売却して外貨を稼いでいることが大きく貢献している。そして政府は4つの柱という、4つの基本理念によって国家を運営している。

4つの柱とは以下のとおり。
(1) よい統治
(2) 公正な経済発展(経済成長と開発)
(3) 文化遺産の保護と伝統文化の継承・振興
(4) 環境保全


この4つの柱のうち、「よい統治」以外の3つは非常にわかりやすい。そもそも「よい統治」とは、いったいどのような統治を差して「よい」とするのか、かなり曖昧な概念である。結論からすれば、国民の幸福度が高ければ、それがよい統治ということになるのだろう。そこでGNHを研究しているブータン研究所は、国民の幸福度を測るために9つの領域を示している。


9つの領域とは、(1)生活水準(2)健康(3)教育(4)生態系と環境(5)文化の活力と多様性(6)バランスのある時間活用(7)よい統治(8)コミュニティーの活力(9)心理的な幸福感である。


しかし、ここには自分の人生を思い通りにコントロールしているかという、個人の自由度に関する項目はない。それは、ブータンの人口の大半が農民であるという事実にも関連しているのだろう。そしてもうひとつ、そこにはあまり語られていないブータンの恥部がある。個人の自由や人権について、ブータン政府が公言できない理由が隠されているのである。



ブータンの恥部


ブータンの母国語がゾンカ語であることはすでに述べたが、実はブータンは多民族国家であり、人口の6分の1近くはネパール系の住民で占められている。1980年代後半になると、増加しつつあるネパール系住民に対して、ブータン政府は危機感をつのるようになった。人口構成比への脅威と、文化の存続への脅威である。


実は先例として、1975年に隣国であったシッキム王国が、ネパール系住民の増加でインドに併合されてしまったのである。そこで政府は、出生率の高いネパール系住民へ神経質になっていた。


そして1990年代になると、政府はネパール系住民を強制的に国外退去させていった。いわゆる民族浄化である。その時に、拷問などの人権侵害があったという報告もされている。人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチによると、ブータン国籍を剥奪されたことで、ネパールにある難民キャンプで生活する人々は、現在約10万人いる。ブータンの人口が70万人程度であることを考慮すると、これはかなりの数である。


文化を守るという大儀があるとはいえ、人権の侵害するようなブータン政府の行為は、個人を軽視するという、典型的な集団主義である。


もとよりブータンは、先進諸国のような産業が中心とした社会ではなく、村社会としての集団主義的な側面を強く残しているのが現状である。これは社会心理学者エーリッヒ・フロムが指摘した、個人主義が台頭する以前の社会と似ているのかもしれない。したがって、今後もブータンの経済構造が変化しないのならば、個人の自由や人権については、あまり重視されない可能性はある。


それは裏を返せば、今後ブータンが国際社会からの影響を受けていくにしたがって、人々がもっと個人主義的に変化していくことも充分に考えられる。その時には、「個人の自由度」という項目が追加されるのかもしれない。しかしながら、それはブータンの伝統ではないとして、かたくなに拒否する可能性も考えられる。


ここで、ブータンに関するその他のデータを見てみよう。


ブータンの平均寿命は66.1歳である。これは他の先進諸国に比べて10歳以上も短い。ブータンの経済状態から考えると、高度な医療を国民全般に普及させることが困難なのであろう。そこで幼児死亡率は、先進諸国の約10倍と非常に高い。また、高齢者を始め、多くの重病患者への医療が先進国並みに提供できないことは、ブータンの平均寿命が比較的短い大きな原因のひとつだと推測できる。


それからブータンの識字率は、なんと47%である。これは世界でも最低のレベルだ。国民の半分以上が、文字が読めないことから、学校教育が無料という名目でも、実際には多くの子供が学校に通っていないのが実態であろう。これも、奥深い山に住む農家が中心となっている人口構成が理由だと考えられる。そこで「社会福祉がすべて無料」という宣伝文句は、額面どおりに受け取るべきではない。


いずれにせよ、ブータンを「幸福度の高い国を目指している」として、ひとつの手本とすることはできるかもしれないが、国家のサイズ、地理的条件、産業構造、経済発展の進度と、どれをとっても現在の日本とはかけ離れている。


もしも「日本を江戸時代の生活に戻す」という名目をかかげ、知識人を国外へ追放し、国民のほとんどを自給自足の農民へと強制的に就労させる、などという政策を断行するならば、話は別かもしれない。ただし1970年代、カンボジアのポルポト政権では、それと似たような思想があった。その結果として、近代科学を一切否定し、知識人階級をはじめとする数百万の同国民を虐殺している。

教育を受けていない人々を、国の政策として無教養のままにすることはできるだろう。しかし日本のような先進国において、教育レベルの高い国民に対して、すべて農家になることを強要するのは現実的ではない。これまで人類の歴史という大きな流れのなかで、世界のどこでも「個人の選択の自由」を獲得する精神が養われてきた。そして選択の自由は、多様なライフスタイルを必然的に生み出す。しかし時には、自由を人為的に抑圧しようとする国家も現れた。全体主義や、イスラム原理主義などはその例である。しかしそういった国家でも自由を求める動きが消えたことはない。長期に渡って国家が自由を抑圧しつづけることは困難であろう。

ブータンが近代化を目指さない限りは、現在の幸福な国家を維持できるかもしれない。しかしそれは同時に、これから先もブータンに入ってくる情報と人の流れを制限すること、つまり鎖国のような状態を維持する必要があるだろう。したがってブータンのGNHという政策は、残念ながら日本を始め多くの国にとって、国家の目標とならないばかりか、あまり参考にもならないだろう。


2010年7月1日木曜日

幸福度の調査は、本当に無意味か?

最近、「幸福度」についての話題が目につく。
日本の科学者は主要国で最も不幸せ--。こんな調査結果を、英科学誌ネイチャーが初めてまとめ、24日付で発表した。満足度1位はデンマークだった。日本人は他国に比べ、休日が少なく研究テーマの選択で裁量が小さいとして強い不満を抱いていた。科学技術立国を掲げる政府だが、科学者が将来の展望を抱けるような政策が求められそうだ。
http://mainichi.jp/select/science/news/20100624k0000m040127000c.html

そして、反論としてかならず出てくるのが、次のようなものだ。
「幸福度という主観的なものを、国民性の違いを無視して比較しても意味がない」

さて、はたして本当に幸福度の調査には意味がないのだろうか。

幸福度調査というのは、本人に直接「あなたはどの程度満足していますか」とたずねることである。日本人は外国人よりも謙虚だから、そういった点を考慮しなければいけないという理屈は理解できる。しかし、いくら謙虚さが美徳であると感じている国民でも、
「あなたはどの程度、いまの生活に満足していますか?」
という質問に対して、内心では10段階で10の満足だと感じているのに、わざわざ8とか9、もしくはもっと低い数字をアンケート調査の紙に書き込む、などという状況がありうるのだろうか。
ちょっと穿った見方をすれば、日本人の幸福度が低いという結果を正当化するために、無理やりこじつけられた理由のように聞こえてしまう。

するとここに、2つの段階にわたって疑問が残る。最初の疑問は、
「日本人は自己の満足度を正しく表現しないのではなか」という仮定に対する、そもそもの信憑性である。この仮定を検証する方法を見つけるのはなかなか難しい。しかし少なくとも、この仮定を何の疑問もなしに受け入れる理由はない。この件に関しては、関連する調査結果がでることを待たねばならない。しかしながら、次の段階を考えることで、この問いに対する一種の方向性を見出すことができる。

そこで次の段階として、もしも「日本人は自己の満足度を正しく表現しない」ということが証明されたと仮定してみよう。これはつまり、日本という文化が、「満足していても、それを表現することはよくない」もしくは「幸せでも、幸せであることを見せてはいけない」という風潮があることになる。これはあくまで仮の話だが、もしも日本人にとって、自分の満足状態や幸せを正しく表現することに抑圧的なプレッシャーがあるならば、これは幸福度調査の信憑性などよりも、もっと根本的な、違う次元の問題が発生してくる。

人の喜びや、充実した感情を表に出すことをはばかることは、個人の感情表現を抑圧するのと同じである。本当は幸せなのに、本人がそれを表現できなければ、それは本当に幸せだと言えるのか、甚だ大きな疑問がのこる。

笑いたいときに思いきり笑うことができず、楽しいときに楽しいと表現することもできないならば、そのうちに笑いや楽しみも半減してしまうだろう。心の底から嬉しいときに、その嬉しさを表現しなければ、嬉しいという感覚も鈍感になってくる。自己表現を奪われてしまった心は砂漠のように乾きはて、潤いが宿ることを拒絶するだろう。文化や伝統という名のもとに、個人の満足感を表現することさえ抑圧されてしまうのであれば、そのような習慣を存続させる意味自体が大きな疑問だ。


日本では、「常識」や「世間体」という見えない権威によって、人々が束縛されている実情がある。そこでもしも、本当は「非常に幸せ」だと自分では感じているのに、アンケート用紙の「非常に幸せ」にチェックをすることにためらわせるようなプレッシャーがあるならば、その背景には「幸せであると他人に告げることは控えなければならない」か、もしくは「幸せになることはよくない」という社会的圧力が働いているはずである。

つまり社会が個人の自己表現を抑圧しようとするか、もしくは幸せになること自体を悪とするかの、どちらかでなければ、生活満足度や幸福度の自己評価を一律に国民全体で低く見積もるという事実にはならない。もしも社会が、幸せになることを悪とするか、もしくは幸せだと表現することがよくないと抑圧しているならば、そのような社会は「幸福な社会」とはほど遠いことになるだろう。

つまり「日本人は満足していても満足だと表現しない」という仮定が真実であろうがなかろうが、いずれにしても、日本人の幸福度が低いことに変わりはないだろう。したがって、主観的な満足度を調査することは非常に有効な手段であると考えられるが、どうだろうか。



2010年6月21日月曜日

遺族感情か、それとも多様で寛容な社会か

「イスラム教について知る必要のあることはすべて9・11で学んだ!」
("All I need to know about Islam I learned on 9/11")
というプラカードを掲げた、数百人規模のデモ行進が6月6日、ニューヨークのマンハッタンで行われた。「グラウンド・ゼロ」付近でのモスク(イスラム礼拝所)建設に反対する人々である。

「グラウンド・ゼロ」とは、9・11米同時多発テロで倒壊したニューヨークのワールドトレードセンタービル(世界貿易センタービル)跡地である。約3000人が犠牲となった同時多発テロの傷跡は、まだ多くのアメリカ人の心に深く残っている。しかしそのわずか2ブロック先に、イスラム教のモスクを建設する計画が浮上している。ニューヨークのイマム(イスラム教の指導者)フェイサル・アブドゥル・ラウフ(Feisal Abdul Rauf)師は、モスクを中心とするイスラム教センター設立の準備を進めている。




イスラム教徒以外にも解放、「架け橋」めざす




モスクにはスポーツ施設や映画館、デイケア・センターなども併設し、イスラム教徒だけでなくあらゆる人に利用を開放する方針で、イスラム教徒たちも地元コミュニティーの一部なのだとアピールしていきたいと語るラウフ師。同師によると米国内でこうした施設はこれまで存在しない。




同時多発テロ以降、アメリカのイスラム教徒たちは世論からも当局からも「テロリズムの温床」というレッテルを貼られ、辛い時を送ってきた。ラウフ師は計画しているセンターが、テロ事件で沈みきったロウアーマンハッタンに活気をもたらすとともに、イスラム教徒に対する米国民の見方を変えることができたらと願っている。




「まるで宣戦布告」と怒りの声も




事件をいまだ「昨日のことのよう」に思い出してしまい、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を訴える市民からは、モスク建設への抵抗感を訴える声も聞かれる。ラウフ師の平和の願いに反し、「グラウンド・ゼロ」間近の立地について「宣戦布告」のようだと怒りをあらわにしたり、アウシュビッツにドイツの文化センターを作るようなものだと批判する人々もいる。【5月20日 AFP
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2728209/5761304





さて、もしも同じようなことが日本で起きたら、どのような結果になるだろうか。

おそらく、「遺族感情を逆撫でする」などという声が大きくなり、反対者の数も膨れあがっていくのではないだろうか。貴方は、どちらの意見に賛同するだろう?

ちなみに米国での現状は、地元コミュニティーボードの投票では29対1でプロジェクト推進に賛成しており、ブルームバーグ・ニューヨーク市長も計画に賛同している。ただし、資金集めがまだ残っており、実際の建設も2,3年先である。

遺族感情を考えることは大切であろう。しかし社会としては、もっと大切なことがあると思う。それは、お互いの違うところを認め合い、多様な考えや行動に対して寛容であることで、共存して生きる道を探ることではないだろうか。不寛容な集団に対して、不寛容な対応では、何も解決しない。

日本の社会が、このくらい懐の深い社会へと変わっていくことを、個人的には諦めたくない。





2010年6月10日木曜日

イルカ漁ドキュメンタリー『ザ・コーヴ (コーブ)』を観た

和歌山県太地町でのイルカ漁ドキュメンタリー『ザ・コーヴ』(ザ・コーブ:The Cove)を観た。

率直な感想は、マイケル・ムーア監督の作品(『ボウリング・フォー・コロンバイン』や『華氏911』)を観た後と同じだった。つまりエンターテイメント性は非常に高いが、あまりにも一方的かつ稚拙なメッセージに、辟易したということだ。

ただし、この映画を上映禁止にさせようとする人たちは、この映画と同様、非常に低レベルの主張と行動であることを自覚すべきだろう。現在各地で行われている妨害に屈することなく、一日でも早く一般公開されることを望みたい。


一部の暴力的な行為に屈することは、その行為を肯定することと等しくなってしまう。
配給会社や映画館は、もっと勇気をもって上映してほしい。



まず、世間で内容について誤解されている点が一部あった。
地元の漁師を「マフィア」と呼んでいるとの批判があったが、これは明らかな誤解である。実際のナレーションは以下のとおり。

“When we first got to the country (Japan), we had no idea who was following us…We didn’t know if it was the whalers. We didn’t know if it was Yakuza, the Japanese Mafia. We had no idea.”

「我々が最初に日本に来たとき、誰に尾行されているのか、まったく分わからなかった。(中略)それが捕鯨者なのか、それがヤクザ、つまり日本のマフィアなのか、まったく分からなかった」

そしてすぐ後に、その正体が「警察署長」だと明かされる。
どこをどう解釈しても、地元漁師を「マフィア」などとは呼んではいない。批判している人は映画を観ていないか、もしくは字幕が間違っていたかのどちらかだろう。

さて、この映画で批判すべき箇所は沢山あるので、まずはじめに、評価できる点をあげてみたい。

1 イルカ肉に含まれる水銀についての警告。

国立水俣病総合研究センターが指摘しているように、太地町住民の毛髪に含まれるメチル水銀は、国内平均の5倍以上が検出された。
早い話、なるべくならイルカ肉は食べないほうがいいということだ。妊婦や幼児にいたっては、絶対にやめたほうがいい。ただし妊婦は、マグロ等を食べることなどすでにタブーになっているので、わざわざイルカを食べる人はいないでしょう。

2 内容とそこからくるメッセージは別として、ストーリーの構成と編集、そして映像はなかなかよくできている。

つまり、娯楽としての完成度は高い。

では、ここからは批判を。

1 イルカ漁反対の動機は理解できるが(賛成はできない)、彼らのやり方では絶対に目標は達せないだろう。

これは、妊娠中絶に反対の立場をとる人たちが、合法的に中絶をしている医者を攻撃するのと同じ方法である。(実際にアメリカでは、中絶をしている医師が殺害されている)

たとえ太地町がイルカ漁をやめても、世界中で「イルカショー」などの需要があるかぎり、誰かが、どこかでイルカ漁をするのは目に見えている。実際に日本以外でも、ソロモン諸島やフェロー諸島、そしてペルーで現在でも行われている。ショー用のイルカは一匹1,300万円程度で売られているので、新規参入してくる人はいくらでもいるでしょう。そこで、本気でイルカの取引をやめさせたいならば、世界中でイルカショーを禁止にしないと意味がない。

もっとも、「なぜイルカだけ?」という疑問も出てくるので、ついでに世界中の水族館と動物園も禁止しないと、一貫した主張になりませんね。

2 イルカの知的レベルが高いから、殺すのをやめようという主張の危険さ。

この議論を突き詰めていくと、知的レベルの低い生き物は生存する価値がない、という発想になってしまう。たとえば、ナチスはかつて知的障害者に対して強制的に不妊手術を施していた。そしてスウェーデンでも、70年代まで同じことが行われていた。これは優生学とよばれる。ちなみに日本でも、96年まで「優生保護法」のもとに公式にカウントされているだけで16,520件の強制的な不妊手術が行われている。(49年から96年まで)
もしも、知的レベルが低い人間が生きる価値がないのならば、あんな映画を作る人たちは真っ先に抹殺されてしまうでしょう。

3 イルカは絶滅に瀕してはいない。

絶滅の危機がある種を保護する義務について、異論がある人はまずいないだろう。(異論があるならば、是非とも知りたい)しかしそれ以外の理由、たとえば「可愛いから」という理由では、イルカ漁反対の説得力はない。私は個人的にイルカを食べたいとは思わないが、イルカを食べたいと思う人の自由を奪うつもりはない。

4 太地町で年間23,000頭のイルカが殺されているという主張。

この数字は誇張されている可能性が高い。多く見積もっても、2,000頭程度なのでは?

もっと細かい部分を見ていくと突っ込みどころ満載の映画だが、この映画を上映禁止させようとする動きには、絶対に賛成できない。たとえ反日と思われるような内容であったとしても、それを公の場所で議論できる環境こそが、健全な社会であると思う。

どんな批判であっても、批判する機会を奪おうとする姿勢は非常に危険である。多様な意見を寛容できるからこそ、自由な社会が保たれるのである。